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  • 2024.03.29

    新選組から西南戦争へ ④

    今回のテーマで最初に紹介したように『一刀斎夢録 上・下』(文春文庫)の主人公、斎藤一から新選組時代、戊辰戦争、西南戦争などの昔話を聞く相手は現役の軍人です。そしてその時期を明治の終わり、つまり明治天皇が死んだ直後に設定しています。明治天皇の死を後追いするように乃木希典が自殺します。「殉死」という言い方をされています(もちろん近代になって殉死は禁止されるのですがこう表現されることが多いかと)

    乃木は西南戦争で軍のシンボルともいえる軍旗を奪われたことを生涯の恥としていました。この乃木の死について現役の軍人に語らせ、斎藤も語ります。これがサイドストーリーともなって小説に一層の深みを持たせています。

    新選組と聞くと、司馬遼太郎の作品『燃えよ剣』の主人公、土方歳三や病弱ながら天才的な剣の使い手とされる沖田総司らがよく知られており、人気があるようです。動乱の幕末という時代だからしょうがないといってしまえばそれまでですが、新選組は剣を振り回し、人を殺傷することを厭わない集団です。斎藤一の思い出話でも「そこまでやるか」という血なまぐさいところがあり、読む人によってはちょっとひいてしまうところはあるかもしれません。

    同じく新選組をとりあげた司馬の小説『新選組血風録』も読んでみました。先にあげた『燃えよ剣』もだいぶ前に読んではいるのですが、なにぶんかなりの長編なので、手が出ませんでした。ということで『新選組血風録』ですが、購入したものの、実家の書棚にきっちりとありました。1962年(昭和37)小説中央公論で連載、文庫本は1969年初版、手にしたのは改装版で2024年1月、44刷、超ロングセラーですね。

    新選組のメンバーを一人あるいは数人ずつをとりあげて構成されている短編集のような形です。残念ながら斎藤一は主役としては登場しません。数か所、名前が出てくるだけでした。
    浅田次郎さんの新選組を描いた作品としては『壬生義士伝』(上下巻、文春文庫)があり、すぐに購入したのですが、まだ読んでいません。

    明治天皇の死、乃木希典の殉死に触発された文学作品として夏目漱石の『こころ』森鴎外の『興津弥五右衛門の遺書』がよく知られています。明治を代表する文豪二人に書かせるほど社会に強い衝撃を与えたということでしょう。乃木希典について軍指揮官としての能力についてはいろいろな見方があるようです。日露戦争を描いた司馬遼太郎が『坂の上の雲』でとりあげています。
  • 2024.03.28

    新選組から西南戦争へ ③

    「西南戦争」は西郷隆盛と大久保利通が仕組んだ壮大な芝居だったと元新選組、斎藤一を主人公とした小説『一刀斎夢録 上・下』(文春文庫)で斎藤が語っています。つまり小説の作者、浅田次郎さんのとらえ方と言ってもいいわけですが、少し背景説明がいりますよね。

    倒幕から明治維新に至る要因はいろいろありますが、いわゆる雄藩といわれる薩摩、長州などの下級武士が大きな働きをしました。薩摩の西郷、大久保であり、長州の高杉晋作、木戸孝允(桂小五郎)らです。

    ところが明治政府になって武士は微妙な存在になっていきます。四民平等となり武士の特権が次々となくなっていくのに、なかなか武士としての気持ちが抜けきらない。武士は本来「軍事力」であったわけですが、徴兵制によって庶民による軍隊がつくられます。「士族」と呼ばれるようになった武士たちは戦いのプロとして徴兵制=庶民による軍隊を軽蔑しきっていました。このような元武士=士族たちをどう処遇していくかが明治政府にとって悩みの種となっていくわけです。

    西郷も大久保も、この古い武士を一掃する、士族をなくさなければ近代国家は作れないということにおいては意見に違いはなかったと思います。西郷は士族の象徴のように思われがちですが、合理的な思考、先を見通す能力がなければリーダーにはなれなかったでしょう。

    鹿児島の私学校生徒というのは、まさにこのかつての武士を引きずっている人たちの集団です。その集団に戦争をさせる、そして敗れてもはや武士はいらないと世の中に知らしめる、あわせて、士族が軽蔑していた庶民による軍隊が十分に戦えることをしめそうとした、そのために仕掛けられたのが「西南戦争」だった、というわけですね。

    もちろん、何らかの史料的裏付けがあるわけではありませんし、そのために同じ国民同士が殺し合いをするというのはめちゃくちゃな話ではあります。西南戦争で士族による反乱、反政府活動は終わり、西南戦争後に徴兵による軍隊が近代国家の軍隊として日清戦争、日露戦争などを担っていきます。西南戦争の結果から戦争前にさかのぼって西郷、大久保の意図はそれだったというのは歴史研究のルール違反ではあり、小説ならではと割り切ればいいのかもしれません。

    とはいえです。まさに倒幕の戊辰戦争から明治の新政府建設に手を携えて邁進した西郷、大久保の関係性を考えると、斎藤一の語り(つまりは浅田さんの見方)は無視しきれないのです。

    斎藤一が加わった新選組は幕末の京都で、京都守護職・会津藩のもとで治安維持にあたった軍・警察のような組織といったらいいでしょうか。傭兵部隊という言い方もできるかもしれません。新選組は幕府が倒れた後、事実上解散となり、そのメンバーの多くは戊辰戦争で戦死したり、新政府軍に捕らえられたりします。斎藤は生きのびて警視庁の警察官として後半生を過ごします。

    西南戦争では、徴兵軍のほかに警視庁の警察官の部隊も九州に出動し、薩摩の士族軍と戦います。斎藤にとっては、戊辰戦争敗戦のリベンジでもあったわけです。斎藤はいわば旧幕府方ですが警視庁警察官には薩摩、鹿児島県出身者も多かったのです。

    江戸時代の薩摩藩では武士階級内でも厳しいランクづけがあり、恵まれた上層の武士層に対して困窮していた下層(下級)武士はずっと恨みを持っていました。その下層武士出身者が多く警視庁警察官になっていました。彼らにとっても西南戦争は長年の恨みへのリベンジ戦だったのです。(というかそういう警察官の感情を上手く使ったということでしょう)

    波瀾にみちた半生を送った斎藤には、かつての「敵」だった薩摩への関心はずっと残り、西南戦争で死んだ西郷、そのすぐ後に暗殺された大久保の後の時代を生きながら「今になって思えば」と語るわけです。

  • 2024.03.26

    新選組から西南戦争へ ②

    作家の浅田次郎さんが『一刀斎夢録 上・下』(文春文庫)で独創的な見方をしめした西南戦争です。辞書的にはこんな説明になるかと。

    明治10年(1877)、西郷隆盛らが鹿児島で起こした反乱。征韓論に敗れて鹿児島に帰郷した西郷が、士族組織として私学校を結成。政府との対立がしだいに高まり、ついに私学校生徒らが西郷を擁して挙兵、熊本鎮台を包囲したが政府軍に鎮圧され、西郷は郷里の鹿児島・城山に戻り自刃した。かつては「西南の役」とも呼ばれた。

    もう少し詳しく。以下から引きます。

    『西南戦争 西郷隆盛と日本最後の内戦』(小川原正道、中公新書、2007年)

    「西南戦争は、明治十(一八七七)年二月から九月にかけて戦われた近代日本最大、そして日本史上最後の内戦である。
    「政府への尋問の筋これあり」
    東京から鹿児島に派遣された「視察団」が、西郷隆盛の暗殺を目的としていると憤激し、こう宣言して西郷以下が挙兵したとき、従う者は約一万三〇〇〇名、その後九州各地から馳せ参じた部隊や徴募隊が加わって、総兵数は三万名余りに膨れ上がった。対する政府軍は六万名余りを動員、半年以上にわたって戦闘が行われることになる」

    ここでは西郷のかつての盟友である大久保利通は出てきませんが、この時の明治維新政府の実質的なリーダーが大久保内務卿でした。徳川幕府を倒し、明治維新を推進した中心勢力の一つ、薩摩藩をひっぱった人物として西郷と大久保が双璧であることに異論はないでしょう。近年では小松帯刀も再評価されていますが、若くして亡くなったこともあって、明治に入ってからの維新政府内での影響力を考えるとやはりこの二人。

    二人は鹿児島市内のごく近いところで育った幼なじみで(西郷が少し年上)、明治新政府では征韓論で真っ向から対立するなどその関係は実にドラマチックであり、いきついたところが西南戦争でした。戦場で相まみえたわけではありませんが、実質的に西郷と大久保の戦争だったわけです。

    ではそんな幼なじみでお互いの考え方は十二分に知っている二人がどうして仲たがいしたのか、征韓論がそれほど深刻な対立を生んだのかという疑問が浅田さん、さらには磯田道史さんにはある。さらには、西南戦争での西郷の指揮や動きが不可解なわけです。

    西郷は私学校生徒らからなる軍勢を率いて東京を目指し、中央政府に圧力をかけて自分たちの主張を通そうとしたと説明されますが、それにしては例えば熊本攻略にこだわるのがよくわからない、さらには、挙兵の直接のきっかけもはっきりしないところがある。

    浅田さんの小説『一刀斎夢録』は、幕末から戊辰戦争までのいくつもの戦いを生き残った元新選組の斎藤一が明治の終わりの時期に、陸軍の剣道の名手に昔語りをするという形で書かれています。斎藤は明治になって警視庁の警察官になり、西南戦争に警察官として従軍します。その斎藤が西郷、西南戦争についてこんな言い方をするのです。

    「戦いというは偶然の積み重ねで、先のことなど誰にも見当がつかぬ。(略)しかしあの戦いに限っては、どうにも台本があるとしか思えなんだ」
    「わしが西郷と大久保の仕組んだ猿芝居を確信したのは、実はそのときであった」
    「ならばなにゆえ、あの西郷だけが格好良く死ぬのだ。あまりに都合がよすぎるではないか。長い芝居の大団円に、花道が誂えられたのじゃな」

    では西郷、大久保の狙いは何だったのか。

    「徴兵令でかき集められた百姓ばかりの軍隊は、戦の何たるかを知った。指揮官たちは近代戦の貴重な体験をなした。海軍も艦隊の総力を進め、日向灘やら錦江湾から艦砲の実弾射撃をした。輸送も通信も兵站も、すべて全力を以て実験された」

    「目的はそればかりではあるまい。あの戦は士族たちの不平不満を吞み込んだ。ほれ見たことか、武力に訴えるなど愚の骨頂じゃと、西郷は身を以て示した」

  • 2024.03.25

    新選組から西南戦争へ ①

    昨年4月からこのブログを書き始めて間もなく1年になろうとしています。高校生にどれだけアクセスしてもらっているかはわかりませんが、「とにかく本を読むことの面白さを伝えたい」ということで、自分自身が最近読んだ本をとりあげ、それを手掛かりにかつて読んだ本に言及したりして書き続けてきました。

    このブログを読んでいただいている方から先日、歴史に興味があるんですね、と感想をいただきました。確かに、歴史関連の本が多いのはその通りなのですが、意識して違ったジャンルの本もとは思っています。という気負いも交えて、「えっ、こんな本も読むの」というところを。

    『一刀斎夢録 上・下』(浅田次郎、文春文庫、2013年初版、2020年第2刷)

    映画も大ヒットした『鉄道員(ぽっぽや)』で直木賞を受賞した浅田次郎さんの小説です。実は浅田さんの作品はほとんど読んだことはなかったのです。ではなぜ、です。

    『磯田道史と日本史を語ろう』(磯田道史、文春新書、2024年)

    「なんだ、結局歴史本かい」と笑われそうですが。これまで何回も著作を紹介してきた磯田さん(国際日本文化研究センター教授)の近著。レベルの高い著作を次々に出していて、つい手にとってしまいます。

    いわゆる「対談本」、そのお相手も半藤一利さん、阿川佐和子さん、養老孟司さんら錚々たるメンバーなので、面白くないはずはなく、書籍広告などを見てもよく売れているようです。多くが月刊『文藝春秋』などに掲載されたものをまとめたものなので、さすが文藝春秋は商売上手、と感心していまいます。(それがわかっていて購入する私のようなものが多いからですが)

    その一人として浅田次郎さんとの対談にこんなくだりがありました。

    磯田 浅田さんの『一刀斎夢録』を非常に面白く拝読しました。新選組三番隊組長・斎藤一(はじめ)を主人公として、幕末維新を描かれていますが、斎藤一は局長の近藤勇や副長の土方歳三に比べると、残された記録が少なく、私のような歴史学者にとっては、掴みどころがない、謎に包まれた人物でした。でも、この小説を拝読したら、斎藤一こそが幕末最高の剣士だと深く納得させられました。

    ほーっ、ですね、私なぞ、そもそも斎藤一の名前すら知りませんでした。そして、驚かされたのはこのくだりでした。

    磯田 小説のなかで展開される、浅田さんの西南戦争論に、私は非常に頷きました。西南戦争は、大久保利通と西郷隆盛の二人が台本を書いて、日本軍を近代化させ、士族の反乱を終わらせるために打った「大芝居」だと書かれています。

    浅田 斎藤一が小説のなかでいうように、西郷隆盛と大久保利通が征韓論ごときで袂(たもと)を分かつはずがないと思うんです。

    磯田 私も「大芝居」は明確な謀議はないにしても、あうんの呼吸というか、「未必の故意」としては、あったのではないかと思います。あまり学者はそういうことを言えないのですが、あんな戦争、西郷だって成功するとは思ってないでしょう。なのになぜやったのか

    ここ読んだら浅田さんの小説を読まないわけにはいきません。

    新しい本との出会い

    最初に、なぜ浅田さんの小説に出会ったかを書きました。何がきっかけで新しい本と出合うかという一例です。何といっても本屋さんの中を歩き回るのがいいのですが、時間的な制約があります。そこで購読している毎日新聞、朝日新聞の読書欄、書評を読む、週刊誌でも週刊文春の書評などはまめにチェックしています。そして、新聞の本の広告、これはいやでも目に入ります。
    そして、この磯田本のような出会い、偶然ではありますが、そのお薦め本が面白かったとなると何とも満ち足りた気持ちになります。

    関連する本も紹介するように心がけているわけは

    読んで面白かった本、勉強になった本を丁寧に紹介するだけでなく、できるだけ関連本にも触れるようにしています。もちろん、紹介する本そのものがとてつもなく面白いということであればそれにこしたことはないのですが、その背景に別の読書体験もあるということを知ってもらいたいとの思いもあります。

    偉そうに書いていますが、ある忘れられない経験があります。新聞社勤務時に、児童・生徒の読書感想文のコンクールで審査員をしていたことがあるのですが、ご一緒していただいたある先生のお話が忘れられないからです。全国の学校を回って読書指導をされていました。

    読んだ本が面白かった、それはもちろん素晴らしい経験であり、学びだけれども、その一冊をきっかけに関連する別の本を読むようになるとさらにいい、そんな読書指導をしてほしい、といった話でした。

    児童・生徒にたくさん本を読んでほしいというのが第一なのですが、少し大げさにいえば、関連する本を読むことで、いろいろな見方、考え方があるということも学んでほしいということなのでしょう。子どもたちには言いにくいことですが、そこに書いてあることをすべて正しいと思ってはいけない、ということもあるでしょう。

    私たち大人がおもに知識を求めて本を読むことと、児童・生徒の読書を同じようにはとらえられない部分もありますが、この先生の話がずっと忘れられません。いい出会いでした。

  • 2024.03.23

    修了式(23日)あいさつ

    23日は2023年度(令和5年度)の修了式でした。校内一斉放送で実施しました。すでに卒業している3年生をのぞいた2年生、1年生に以下のような話をさせていただきました。

    みなさんは小学校から中学校、そしてこの東野高校に入学してこれまでずっと3月から4月にかけて進級、あるいは上の学校に進学してきました。4月から翌年の3月までが児童・生徒としての1年間だったわけです。

    いうまでもなく暦、カレンダーの新しい年は1月から始まり12月が終わりです。どうして学校は1月から新学期が始まらないのか、どうして4月からが1学期なのか、みなさんは疑問に思ったことはありませんか。1月から新しい年が始まるのだから学校も1月から新学期が始まればいいのではないかと考えたことはありませんか。

    これは国や東京都、埼玉県などの地方自治体が会計年度とよばれる1年間の区切りで動いていることに学校もあわせているからです。税金を集めてそれを使うのが国や地方自治体の仕事ですが、それには時間の区切りが必要です。この区切りが会計年度と呼ばれ、4月に始まり3月で終わりとされています。歴史的にみると学校は最初はほぼ公立だったので国や自治体に合わせたわけです。東野高校のような私立学校もそれにあわせているわけです。

    では、その会計年度はいつごろからこうなったのかということですが、明治時代までは1月から12月を一つの区切りとしていたようです。それが明治になって二転三転します。明治2年(1869)は10月始まり。明治6年からは1月始まり、明治8年からは7月始まりと目まぐるしく変わったそうです。わけわかりませんよね。そして明治19年、1886年から今の4月始まりになりました。

    では外国の会計年度はどうなっているのか、ということですが、日本と同じように4月から3月としている国は、インド・パキスタン・イギリス・・カナダなど、1月から12月が中国・韓国・フランス・ドイツ・オランダ・ベルギー・スイス・ロシアなど。7月から6月という国もあります。フィリピン・ノルウェー・スウェーデン・ギリシア・オーストラリアなどです。アメリカは10月から9月を会計年度にしています。

    ここで考えを広げてみてください。それならば学校の学期、1年も国によって異なるのではないかと想像できますね。

    実は日本のような4月はじまりは少数派で、圧倒的に多いのが9月始まり、アメリカ、カナダ、フランス、ロシア、中国などで、先ほど紹介したその国の会計年度とは必ずしも一致しません。何やら別の理由があるのではと推測できます。

    高校野球でこれまで最多の通算140本塁打を放った岩手花巻東高校の佐々木麟太郎選手が米国スタンフォード大学への進学を決めたというニュースがありました。佐々木選手は当然、この3月に高校卒業ですが、アメリカのスタンフォード大学は9月始まりなので、入学まで間が空くわけです。

    東野高校のみなさんの先輩の中でアメリカの大学に進んだ生徒も同じで、4月からアメリカに渡り、大学入学前に現地の語学学校で英語を学ぶと話していました。

    これから海外の学校で学ぶ人たちはどんどん増えていくでしょう、そんなこともあって、日本も世界の多くの国にあわせるために学校を9月始まりにしたらいいという意見が出てきています。一方で、今話をしたように学校だけの問題ではないので、簡単にいかないことも理解してもらえると思います。

    まとめます。これからみなさんは外国に出かけ外国で仕事をする、あるいは日本にいても外国の人たちと一緒に仕事をしていく機会が間違いなく増えます。そんな社会を生きていくために、この学校の1年の違いの例のように

    日本の伝統とか、古い歴史があるように思えることが必ずしもそうではないこと、日本であたり前だと思っていることが実は世界の中では珍しいものがけっこうあること、そんなことをあらかじめ知っておく、そのうえで外国の人とつきあっていくことが必要だと思います。

    このような学び、知識が建学の精神の一つ「知識は第一の宝」ではないでしょうか。

    会計年度の変遷については、国立公文書館のウエブサイトに教わりました。以下、引用します。

    4月は新しい年度を迎え心弾む時期。このように私たちの生活に密接な「年度」は、明治時代の会計年度が元になりました。当初から4月始まりだったわけでなく、明治政府により会計年度が初めて制度化された明治2年(1869)は、10月始まり。続いて、西暦を採用した明治6年からは、1月始まりになりました。つまり、暦年と年度の始まりが同じ時代があったのです。明治8年からは、地租の納期にあわせるという目的で、7月始まりになりました。

     次に会計年度を変更したのは、明治17年(1884)。その頃の日本は、国権強化策から軍事費が激増し、収支の悪化が顕著になっていました。当時の大蔵卿である松方正義は、任期中の赤字を削減するために、次年度の予算の一部を今年度の収入に繰り上げる施策を実施。この施策は珍しくなく、当時はよく行われていました。そして、予算繰り上げによるやりくりの破綻を防ぐため、松方は一策を講じました。明治19年度の会計年度のスタートを7月始まりから4月始まりに法改正したのです。この改正により、明治18年度は7月から翌年3月までの9ヶ月に短縮され、予算の辻褄をあわせると同時に赤字も削減されました。

     こうして会計年度は4月始まりになりましたが、この会計年度にあわせる形で学校などの新年度も4月開始になっていきました。その後、現在まで4月始まりの年度は続いています。

    いやあ、よく思いついたなという感じで、現代の感覚からするととても許容できるような話ではないでしょうが、中央政府の役割がまだまだ限定的だった時代なので、大きな混乱はなかったのでしょう。

    「暦」関連では、明治になって太陰暦を太陽暦に変更するということがありました。国立公文書館の説明文の中に「西暦を採用した明治6年」とあります。一般的には明治になって開国し、欧米スタンダードの太陽暦に合わせたと説明されることが多いようですが、太陰暦から太陽暦への切り替えの時期の設定で1年を短くし、それによって財政難だった政府の支出や役人の人件費を抑えたという「もう一つの狙い(こちらが主たる狙いだったか)があった」という研究もあります。

  • 2024.03.22

    京都も占領されていた ⑥

    第二次大戦・太平洋戦争後の連合国軍(米軍)の京都占領(進駐)の話から、東京・練馬にあった米軍宿舎「グラントハイツ」、代々木にあった「ワシントンハイツ」に話が飛び、そこで終わるはずだったのですが、国土地理院の空撮写真データベースを活用していて「それなら京都の写真も当然あるだろう、何か参考にならないか」と探してみました。というわけで、しつこく「京都も占領せれていた ⑥」です。


    京都市中心部を1946年に米軍が撮影した写真です。上が北になっています。いわゆる碁盤目状という京都の道路、街並みはそのままです。左下の大きな四角に囲まれたところが二条城。右上の、その二条城の何倍ものスペースがあるところが京都御所、京都御苑、ちょっとわかりにくいですが、その中間部あたりに少し大きめの四角に囲まれたところが京都府庁です。

    二条城は周りを道路か空地のようなもので囲われています。特に東側はやや幅広です(茶色の矢印のところ)。白い直線となっている道路幅と比べても、二条城東側はかなり幅広です。解像度をあげて(アップで)見てみると空地のように見えます。ここに飛行機が降りたか?

    御所、御苑はどうでしょうか。御所の周囲を巡る道路が見えますが、御所南側にもかなり幅広の長い道が何本もあるようです(青色の矢印のあたり)。やはり飛行機が降りたという御苑ですが、御所の築地塀のすぐ脇の道より、こちらの道の方が飛行機は降りやすかったのでは。勝手な推測ですが。

    まったくの私的思い出です

    さて、時々京都には出かけるのですが、やはり行く先は神社仏閣、博物館・美術館などが多く「京都も占領されていた ②」でとりあげた京都府庁旧庁舎のあるあたりはいわゆる「官庁街」なので、近年は足を運ぶことはありませんでした。

    ところが旧庁舎を見にいって周辺の様変わりにびっくり。府庁はもちろん、すぐ隣の京都府警察本部も新しい高層ビルになり、かつて京都府警本部の管理部門があった建物には国の役所である文化庁が入居していました。

    /
    文化庁の庁舎。バリアフリーのスロープなどもついています。府警本部のころの面影は十分残っていました
    /京都市が文化庁誘致に力をいれました

    文化庁の東京から京都への移転については、京都側の熱心な働きかけがあって実現したわけですが、完全移転ではなく、京都に移ってきた職員の気持ちも複雑でしょうね。府警本部当時の建物のままだったら、その古さには辟易とするであろうから、さすがに内装などは一新されているのでしょう。IT環境なども必須ですしね。あいにく休日で中に入ることはできませんでしたが、外観はさっぱりとはしていました。

    その文化庁になった府警本部の管理部門の建物(下の写真の右端に写っている建物)の南側には道路を挟んで府警本部の別庁舎がありました。そこはすっかり取り壊されて空地になっていました(下の写真、道路左側の白色のフェンスで囲まれているところ)。

    この取り壊された庁舎には捜査一課などがある刑事部や防犯部(当時の名称)などの捜査部門が入っていました。この取り壊された庁舎と旧本部は写真中央の道路の下の地下道でつながっていました。

    普段は記者クラブのあった右側の建物を出てから信号を渡って向かいの庁舎にせっせと足を運び、府警幹部の方々も普通に外を歩いていたような。何回かは地下道も歩いたか。すっかり忘れていたのですが、何十年ぶりかでここに立ってみて突然、思い出しました。

    もちろん地下道は今はなくなっているのでしょう、保安上、書いてはいけない話だったかしら、建物そのものがもうないのだし、まさかね。
    だからどうしたというごく私的な思い出話でした。

  • 2024.03.21

    東京もう一つの米軍住宅ーー京都も占領されていた ⑤として

    学校ウエブサイトのサーバー障害でブログの更新ができなくなっていました。本日21日から再開します。

    戦後、東京都内にあった連合国軍・進駐軍(実質は米軍)の住宅だった「グラントハイツ」をとりあげましたが、もう一か所、ここもふれないわけにはいかないというのが「ワシントンハイツ」。現在の代々木公園一帯(渋谷区)が同じように米軍住宅でした。

    グラントハイツについてまとまった本は探しきれなかったのですが、こちらはかつて読んで印象深かった一冊があります。

    『ワシントンハイツ GHQが東京に刻んだ戦後』(秋尾沙戸子、新潮社、2009年、新潮文庫版あり)

    第二次大戦後やってきた米軍が都内の施設を次々と接収し、事務所などとして使い始め、家族住宅も造られます。この本はその経過を綴るだけでなく、そこに出入りをして商売をしていた日本人、さらには軍人・軍関係者として日本で暮らした人へのインタビューなどもまじえ、副題にあるように、戦後の東京のある側面を描き出す力作です。紹介しきれないので、グラントハイツにも関係するところなどを何か所か引用します。

    「接収が始まってすぐに米軍兵士がテントを張り始めた代々木練兵場は、すでに金網のフェンスに囲まれた「東京の中のアメリカ」になっていた。昭和二十一年八月、米軍の第八軍司令部はその地を米軍家族居住地区に指定し工事を始め、翌年九月に竣工していた。敷地面積二十七万七千坪、芝生の中に同じような造りの家屋が八百二十七戸と大量に建ち並び、そこには一九四〇年代のアメリカがそのまま再現されていた。米軍はその「街」を「ワシントンハイツ」と名づけた」

    練兵場という旧日本軍の施設をそのまま使うことは、成増飛行場を利用したグラントハイツと同じですね。

    「このほかにも都心には、練馬区の成増飛行場跡にグラントハイツ(千二百六十七戸)、永田町の閑院宮邸跡にジェファソンハイツ(七十戸)、霞ヶ関にリンカーンセンター(五十戸)などの米軍住宅施設が建てられるが、いすれにもアメリカの大統領の名前がつけられている」

    その住宅は費用も工事も日本の負担でした。占領されているのだからと言えば当然なのでしょうが、複雑な気持ちです。

    「ワシントンハイツの工費は八億円、労務者は延べで二百十六万七千人を動員した。仕事を請け負ったのは鹿島建設、清水建設、戸田建設などだった」

    このワシントンハイツもグラントハイツ同様、アメリカの占領政策の転換とともに軍人が減っていき、空き家が増えていきます。返還運動も盛んになります。そして、日本に返還されるきっかけとなったのが1964年(昭和39)の東京オリンピックでした。選手村になったのです。そしてオリンピックが終わって選手村は取り壊され、公園などに生まれ変わりました。その敷地内にはいまNHKの放送センターもあります。

    グラントハイツからみでこんなエピソードが紹介されていました。

    「昭和三十二年には成増グラントハイツの高校生ビル・マケインがラジオ局を作っている。彼は秋葉原にでかけ、スピーカーやアンプ、ワイヤー、チューブを買い込んで、「ラジオ・ティーン」を立ち上げ、自らディスクジョッキーを始めた」

    「といっても、実際の電波に乗せたのではなく、電話回線を使って、ワシントンハイツや埼玉県朝霞の米軍住宅「モモテ村」、キャンプドレイク、それにグラントハイツにあるプールサイドをつないで、スピーカーで流した。アメリカのレコード会社にプロモーション用のサンプルレコードを送らせ、届いたヒットソングをかけながら、「トップシングル100」を発表、米軍家族住宅で暮らす中高生たちを興奮させた」

    筆者の秋尾さんは取材をふりかえっています。

    「こうした高校生たちのちょっとした冒険は、しかし日本社会に何ら影響を与えるものではなかった。およそ五十年が経ち、二十一世紀になって、リタイアした彼らが同窓会気分で全米に散らばった当時の仲間を探そうとウェブ上で情報交換していなければ、日本人の私に知られることもなかった」

    秋尾さんは「あとがき」でこう書いています。『古都の占領』の筆者、西川祐子さんと問題意識は共通しています。

    「占領に手を染めるなんて、無謀だ――。周囲からそんな声があがった。そんな昔の話をなぜ――。(略)日本人にとっては複雑にからみあった年月であり、アメリカ人にとっては通り過ぎた思い出の一頁にすぎなかった」

    「もう少し早く始めていれば――。何度悔やんだかわからない。ようやくそこで暮らした人を探し当てその話に耳を傾ければ、記憶が定かではないこともしばしばだった」

    「しかし、いま私が聞き取って次世代へ伝えなければ、永遠に占領期は封じ込められてしまう。紋切り型のGHQ批判で終わってしまう」

    また国土地理院データベースの空撮写真に頼ります。

    1946年米軍撮影。写真右上に広がる森(写真では黒っぽくなっています)が明治神宮、L字型の参道が写りこんでいます。その神宮の左から下にかけてがワシントンハイツ。直線道路と曲線の周回道路の間に、横長の同じような建物が、たっぷりの間隔を空けて(庭ですね)規則正しく並んでいるのがわかります。

    1966年6月国土地理院撮影。オリンピックが終わった後ですが、もちろん明治神宮はそのまま、ワシントンハイツ中央部を横切る直線道路が拡幅されています。その道路の下側(南側)にお椀を向かい合わせたような形の建物が見えます。建築家・丹下健三の代表作、吊り屋根が特徴の代々木競技場第一体育館です。東京オリンピックにあわせて作られ、競技会場にもなりました。道路上側(明治神宮側)に建物が残っています。ここが選手村になりました。
    『ワシントンハイツ』によると、選手村の宿舎は既存の建物を改修した、とあります。米軍住宅を活用? したのですね。
  • 2024.03.14

    1年生の写真作品が高く評価されました

    1年、今井椋大さんの写真が「青いボクら写真展」(大塚製薬主催)で、全国から応募があった中から選出される70作品のひとつに選ばれました。「青春の光」というタイトルだそうです。

    おめでとうございます。

    写真展についてはこちらを

  • 2024.03.12

    東京・練馬の米軍住宅ーー京都も占領されていた ④として

    第二次大戦・太平洋戦争後に連合国軍(占領軍)、実質的にはアメリカ軍(米軍)が列島各都市にやってきて進駐軍、占領軍として日本を統治下に置きます。古都・京都もその例外ではなかったということで、占領軍の事務所が置かれた場所や軍人家族の住宅が建てられたところなどを紹介しました。それでは、東京はどうだったのか、軍の規模からいっても京都の比ではありませんよね。半世紀ほど前に自分自身のすぐ身近にあったことを思い出しました。ということで「京都も占領されていた」の付記とします。

    練馬区のほぼ中央付近、緑いっぱいの「光が丘公園」があり、その周辺には高層住宅も立ち並んでいます。同区のウエブサイトによると、公園の広さは約60万平方メートル、23区内で4番目の広さだそうです。この公園付近がかつては「グラントハイツ」と呼ばれる米軍住宅でした。

    『古都の占領 生活史からみる京都1945-1952』(平凡社、2017年)で筆者の西川祐子さんは、占領期の研究があまりされないうちに時間がたっていくことを危惧していると、前回のブログで紹介しました。グランドハイツに関しては、練馬区はウエブサイトでけっこう丁寧に「光が丘公園の歴史」をまとめていて感心させられました。写真も豊富です。

    ご存じかどうか、練馬区は戦後の1947年(昭和22)に隣の板橋区から分離して「練馬区」になりました。東京23区で一番新しい区です(といってもかなり昔ですが)。現在の光が丘公園のあたりは戦前は田畑が広がっていたところで、区の説明文では大根畑などが例示されています。そう「練馬大根」です。

    戦争中には軍の「成増飛行場」が作られ、そこに戦後、米軍住宅が建てられることになります。飛行場だったので平らに整地されている、住んでいる人を立ち退かせる必要がないなどの理由から米軍住宅の適地として選ばれたのでしょう。その後は京都の米軍住宅の推移と同じように軍人・家族が減っていくにつれ、その広大な土地を還してほしいという運動が広がり、1973年(昭和48)に完全返還されました。

    このグラントハイツですが、私はけっこう近所で成長しました。練馬区のウエブサイトにこんなくだりがあります。
    〔昭和35年〜〕金網の中は荒れた原っぱに
    (略)1960(昭和35)年頃になると、住民はほとんどいなくなり、雑草が茂る広大な空き地が残されました。

    もともと金網で囲われていたグラントハイツ。貯水槽や害虫駆除の管理が行き届かなくなると、悪臭や蚊・ハエも発生。また、「金網の向こう側を野犬が走り回っていた。野犬はたくさんいたので怖かった」と、多くの人が当時を語ります。

    そう、金網あるいは鉄条網の向こう側に、なかば崩れた建物が見えた、廃墟が広がっていたことをよく覚えています。野犬云々はわかりませんが。そして、こんなくだりもありました。

    「グラントハイツ」は、南北戦争後に第18代アメリカ大統領になったグラント将軍に由来しています。1879(明治12)年に来日し、伊藤博文や岩倉具視とも会談した将軍です。

    飛行場跡地の広々とした場所がグラウンドをほうふつさせるためか、「グランドハイツ」だと勘違いしている人も多いようですよ。

    はい、私も勘違いしていた一人でした。

    「鉄ちゃん」(鉄道愛好者)として忘れてならないのは、このグラントハイツまで鉄道があったことです。もともと戦時中に、現在の東武東上線の上板橋駅付近から陸軍施設まで線路が敷かれていた、戦後、グラントハイツの建設工事のためその路線が延長された、その工事責任者の軍人の名前をとって「ケーシー線」と呼ばれたそう。1959年(昭和34)に廃止されたとのこと。
    当時の地図には「啓志線」と書かれていたそうで、アメリカ人の名で呼ぶのに抵抗があったのかもしれませんね。


    1948年3月、米軍によって撮影された写真。横長の建物が規則的に並んでいるのが見て取れます。ほぼ中央に幅広い道路が上下一直線に伸びていますが、練馬区のウエブサイトに載っている「成増飛行場」の写真をみると、ここが滑走路だったようです。

    写真右端から上に斜めに伸びている白い太い線が国道254号線(川越街道)で、そこからT字路で太い道路がグラントハイツに入り込んでいます。同じように写真中央右端からグラントハイツに向かって白い線が伸びグラントハイツ手前で何本にも枝分かれしています。これが鉄道「ケーシー線」ですね。

    時代は下って、その代わりというわけではありませんが、現在、光が丘には、都営地下鉄大江戸線が伸びてきています。

    2019年11月撮影の「光が丘公園」一帯。林の中に4面の野球場や陸上トラックが見えます。公園の敷地右上端に、国道254号線から伸びてくる道路がそのまま残っています。

    「光が丘公園」の歴史を紹介する練馬区のウエブサイト特集ページはこちらから

    この2枚の写真は、国土地理院の地図・空中写真閲覧サービスで検索しました。探したい地点を地図で見つけ、写真が撮られた時期などを指定して検索します。すぐれたデータベースです。

  • 2024.03.11

    京都も占領されていた ③

    『古都の占領 生活史からみる京都1945-1952』(西川祐子、平凡社、2017年)で第二次大戦後には京都にも連合国軍がやってきてホテルや役所を接収したことを改めて知ったわけですが、この西川さんの本でのきわめつけはこれかと。

    「占領期のあいだ二条城前、現在は大型観光バスが数多くとまっている広い道が小型飛行機の発着場所となっていた。だが、その前に、進駐開始の日に御苑に舞い降りた飛行機があったのだ」

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    小型飛行機の発着場所となった二条城前の広い道、はここのことでしょう。写真の左端に映りこんでいる白い壁が二条城の外壁。その外壁、堀に沿ってタクシー乗り場、観光バスの駐車場が設けられていて、右側は堀川通り。戦後すぐのころは、もちろんこのような舗装路でなく並木もなかったでしょうから、長く広い道が滑走路替わりになったと思われます。

    「それにしても」ですよね。

    そして「御苑」です。「京都御所」の周囲に広がる公園で市民が自由に出入りできる場所です。この京都御苑に米軍将校宿舎を作るというプランがあり、懸命の交渉の結果、先に紹介したように植物園に変更になったことは「京都も占領されていた ②」でふれました。その御苑に飛行機が降りた、とは。

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    左の写真が京都御苑の御所西側。右側に長く続く築地塀(ついじべい)の内側がかつて天皇の住まいだった御所。右の写真は御所南側の京都御苑。戦後は荒れていたでしょうが、確かにスペースとしては広いので宿舎を作ろうという発想があってもおかしくはないし、広さだけなら滑走路代りにはなるでしょうが。二条城前同様、「それにしても」ですよね。

    宿舎を建てるという占領軍の要求をどうはねのけたのでしょうか、興味がありますね。京都が都で天皇がいて政治が行われていた時は、現在の御苑の場所には役所の建物や貴族の屋敷が並んでいました。占領軍に「昔はここに貴族が住んでいたではないか(だから自分たちが住んで何が悪い)」などと持ち出されたら、なかなか拒否するのは難しかったかもしれない、などと想像してしまいます。

    長々と書いてしまいました。京都に関心のない人にはなんのこっちゃ、でしょう。ただ、こういった「歴史」がきちんと書かれ次の世代に受け継がれていくことは大事です。

    西川さんが書いています。

    「戦後のはじまりに占領期があったことは忘れられやすい。思い出したくない記憶だからである」
    「戦争だけでなく占領期を経験として語ることができる人はすでに数少なくなった。占領期研究の大勢は文献研究へと移っている。消えかかった記憶を呼びさまし、文献を読み直すことを急がなければならない」

    「京都御苑」の公式ホームページはこちら

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