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BLOG校長ブログ

2023.05.06

「江戸の宇宙論」

江戸時代の人たちが宇宙をどのように考えていたのかというのも興味深い分野ではありますが、ここでは、江戸時代に、コペルニクスの地動説やケプラーの法則、ニュートン力学が日本にどのように伝えられ広まっていったのかがテーマです。江戸時代の洋学、近代科学の受容となると「解体新書」(1774年)が思い浮かびますが、『江戸の宇宙論』(池内了、集英社新書)を読むと、ほぼ同じ時期に思いがけない人たちが関わっていました。

長崎通詞(通訳)の本木良永(1735~1794)はコペルニクスの地動説を日本において最初に明確に紹介した人物で、イギリス人の著作を翻訳。「太陽が中心にあってその周囲を回転する地球という描像の下で私たちの世界を太陽系宇宙として客観視する視点に到達した」と評価します。

この写本を読んで地動説に魅せられたのが天才絵師、司馬江漢(1747~1818)、自らの著書で啓蒙活動を行ったことで、地動説、宇宙論を受け入れる人たちが少しずつ増えていったそう。

同じころ、やはり長崎通詞だった志筑忠雄(1760~1806)は西洋の天文学・物理学入門の文献を翻訳。ケプラーの法則やニュートンの運動の三法則と万有引力の法則を数学的に理解した上で「引力、求心力、遠心力、重力、分子など多くの物理用語を生み出した、日本の物理学史の重要人物」と評価されています。

この志筑の写本を読み、無限宇宙に思いを馳せたのが大阪の大名貸し業者の番頭、山片蟠桃(1748~1821)。蟠桃が示した宇宙像では、各恒星の周りに惑星が必ず生まれ、そこには人間が誕生していて、宇宙のあちこちに人間が存在することを当然のように述べているとのこと。

「現在の私達の常識からいえば、生命が満ち溢れた宇宙像は当たり前だが200年も昔に、生命誕生の条件を想定し、原始的な生命体から複雑な生物へと進化した道筋を考え、ついには人間の誕生への至ることまで想像し得たことは、彼の思考が時代に先駆けて科学的であったことを意味する」と池内さん。

現代のような印刷による書籍の大量発行ができなかった時代、さらに、蘭学、洋学そのものへの警戒心からいよいよ書籍として広まることが困難だったときに、知識がどのように広まっていったのか。写本、手渡しといったアナログの極みだったわけですが、逆にいうと知識、学びへの貪欲さがあったということなのでしょう。

池内さんは続けます。
「彼らの業績についてはこれまでの天文学史ではほとんど触れられてこなかった。おそらく彼らが学者ではなく、天文学を生業としない人たちだったからではないか。彼らの仕事は素人の楽しみ程度にしか映らなかったのだろう。しかし、視点を変えてみれば、気軽に科学の分野に遊び、そこで見つけた新概念を愉しみ、人々に知らせたい願う、そんな姿が見えてくる、それこそが本物の知の喜びなのではないだろうか」。

彼らがどのように翻訳していったのか、その言葉の選び方などを池内さんは丁寧にわかりやすく解説しています。天文学史の復習にもなります。