2023.12.28
この「古典を学ぶ」とは①で投げかけられた「古典を学ぶ価値や意味はあるのか」という問い。近代明治になって「古典的公共圏」が没落してしまった、そして迎えている現代。古典を学ぶ意義をどう考えたらいいのか。『古典と日本人』(光文社新書)の筆者、前田雅之さんは力説します。
「私たちは、生きた歴史に戻り、体験するために、改めて古典を読む必要があるのではないか。なぜならそこには時代時代の人たちが記した、言説としての生の歴史があるからである」
「古典語で記された古典によって、私たちは、言語的感性の連続性をおのが心身に身につけることができるのである」
「古典とははるか昔の出来事や物語を記したものであり、言ってみれば、現在の私たちにとって、明確な他者である。他者としての古典を背負っているのが私たちなのである。だが、古典は他者であるからこそ、現代の読者である私をも相対化しうる。(略)私の周囲にある他者、これから迫りつつある未来という他者に対して、古典という他者の目を通して、外界・未来を相対化しえたら、地に足がついたさらなる覚悟が生まれるのではあるまいか」
「古典・古典語をもつ国・地域に生まれ育った人間は、古典を<宿命>として背負っていくしかないのである」
「<宿命>を背負って、明るく未来に向かって生きる。古典とはそのような指針となり、他者としての友となってくれるありがたい存在なのである」
読み終わって、この著書をどうまとめようかと少し時間をおいていたら、思わぬ出会いがありました。
戦国時代の武将、北条早雲の一代記。1982~83年に新聞連載された長編時代小説です。まだ読んでいなかったかと手にとったのですが、文庫本中巻にこんなくだりがありました。
「この時代(室町時代後期)、教養には三つの柱があった。二つは「儒仏」である。しかし儒教と仏教だけでは一人前とはされず、「歌学」がことさらに重んじられた。歌学とは、日本語としての磨かれた詩藻、もしくはおのれの詩藻のみがきかたといっていい。詩藻の原典とされたのは、散文としては『源氏物語』、詩としては『古今』『新古今』の二つの歌集で、この三つに通じなければ一人前の士ではないとされた。このため、諸国の守護はその祖は草深い田舎武士であったが、あらそって歌学の師をまねいて『源氏』『古今・新古今』を学んだ」(詩藻=しそう=は詩歌や文章のこと)
細かい点やニュアンスは異なるものの、これって「古典的公共圏」の説明そのものですよね。もちろん学術的に説明しようとすると前田さんのような「定義」が必要とされるわけですが、司馬さんのこの表現でもいわんとするところは通じるわけです。
注意したいのは、司馬さんは「教養」の一つとしての古典、という言い方をしています。教養をどう定義するかというのは結構難しく、私自身も前田さんのこの著作を読みながら、つまり「教養だよね」と感じてはいました。
ただ、教養だから古典が大事だと言ってしまうのは簡単ですが、そもそも「教養」が冷ややかに受け止められる残念な時代になっている以上、「教養」を掲げても説得力がない、いちから説かないとダメなんだと、読後考え直しました。逆に、教養とは何かを考える手掛かりもなりますね。
で、はい、来年のNHK大河ドラマはなんと前田さんがいう「古典の中の古典」の一つ、『源氏物語』の作者、紫式部が主人公です。
大河ドラマは毎年、関連本がたくさん出版されます。この前田さんの本『古典と日本人』の発行はほぼ1年前、「古典的公共圏」についての本を10年ほど前から出したいと願っていたと「おわりに」に書かれているので、大河ドラマを意識したわけではないでしょうし、源氏物語や紫式部について特段詳しく書いてあるわけではありません。
私自身も発行後比較的すぐに購入しましたが、「積ん読」になっていて、そうだ大河ドラマだと、あわてて読んだというのが正直なところ。というわけで、しっかり大河ドラマは意識しています。関連本も購入し始めています。
ということで来年につなげます。
年末まで読んでいただきありがとうございました。
よいお年をお迎えください。
2023.12.27
鎌倉時代に、古典及び和歌が公共圏として位置付けられる、とありました。『古典と日本人 「古典的公共圏」の栄光と没落』の副題にあるここで「公共圏」という言葉が出てきます。
筆者の前田雅之さんは以下のように定義します。
「古典的公共圏とは、古典的書物(『古今集』・『伊勢物語』・『源氏物語』・『和漢朗詠集』)の素養・リテラシーと、和歌(主として題詠和歌・本歌取り)の知識・詠作能力とによって、社会の支配集団=「公」秩序(院・天皇--公家・武家・寺家の諸権門)の構成員が文化的に連結されている状態をいう」
きれいな定義(あたり前ですが)ですが、乱暴な言い方だと「古今集とか伊勢、源氏などを読んで知っていて、和歌もそれなりに作れるということが社会の支配層には必要な能力。それがないと支配層に入れないし、そこで生き延びることはできないよ」ということですね。
そしてこの
「古典的公共圏はおそらく後嵯峨院時代(一二四六~一二七二)に成立したと思われる」「そして、これはなんと明治維新まで維持されていくのである」
「その後の日本の歴史はいわば激動の波が何度も押し寄せてくる」と前田さんが書くように、「後嵯峨院時代のような安寧の時代」は終わり、鎌倉幕府が倒れて室町時代に、そして戦国時代・江戸時代に変わっていく中で、「古典どころではないだろう」と思いがちですが
「古典的公共圏は弱くなるどころか、ますます磨きを掛けて強くなっていくのである」
平安京の貴族は「それはそうでしょう」とわかりやすいが、満足に字も書けないとか「雅」とか「和歌」とかからはほど遠い印象を持たれがちの武士たちがかえって古典に憧れ、古典を必要としたというのも「なるほど」です。さらに、古今集の読み方、解釈の仕方を口伝えで後世に伝える「古今伝授」を受けていた戦国武将・細川幽斎が城を囲まれピンチ、という時に、「古今伝授」が途切れてしまうと時の天皇のひと声で戦いが終わってしまった話などは象徴的なエピソードですよね。
本の副題にあるように、その「古典的公共圏」は明治になって没落してしまうわけです。
「前近代の教育・教養は(略)、古典的公共圏の一員となるべく用意かつ展開がなされてきた。(略)和歌が詠めて古典を体得し、漢詩文も解しかつものせる人間にすることが教育の目的であり、それらはそのまま教養であった。いっぱしの教養人を養成する、これが前近代の教育だったのだ」
「だが、明治以降は教育そのものが激変したのである」
「近代とは、それまでの日本にしかと存在した古典的公共圏とは相容れない世界である。幕末までしっかりと残っていた古典的公共圏は(略)明治の中期にはほぼ全面的に崩壊してしまった」
さらに古典(古文・漢文)が学校教育で国語科の一科目として定着したことについて前田さんは疑問を投げかけます。
「古文・漢文が教育内容として排除されなかったことではよかったと言えるかもしれない」
「だが、古典((古文・漢文)が国語科の一科目になったということ、それ自体が古典にとっては大いなる不幸、あるいは、地位下落だったのではあるまいか」
「古典の習得ではなく、古典が成績評価の一つになったのである。これでは古典は得意科目、苦手科目という狭い範疇の中に追いやられてしまう。いわゆる古典の価値は、事実上なくなったと言うべきであろう」
「科目として残ったし、入試に出題されるので、やむなく勉強しなければならない。どちらかと言えば、避けたい、触れたくない科目になったということだ」
2023.12.26
『古典と日本人 「古典的公共圏」の栄光と没落』で筆者の前田雅之さんがあげた「日本における古典の中の古典」は以下の通りです。
「えっ、どうして」と疑問を持ちませんか。私はけっこう驚きでした。
「いずれも文学書であり、しかも、いずれも和歌・漢詩句の集成および和歌を大量にもつ散文であった」
つまり、先に引用したように、「和漢」という二つの古典・古典語の間には価値の差異がないという日本だけが持つ特徴が表れている作品、ということになります。
④和漢朗詠集はちょっとなじみがないかもしれませんね。私もほとんど目にしたことはないです(つまり読んだこともない)
「『和漢朗詠集』は、『源氏物語』や『伊勢物語』に引用される多くの漢詩句の典拠であったばかりではなく、江戸末期に至るまで実に多くの写本が生まれ、江戸時代にはさまざまな形で版本となった。その数は、代表的なものだけでも五〇を超えるほどであった。実によく読まれた古典だったのである」
この四作品を古典の中の古典とする理由ですが、現代のベストセラーのように本が印刷された時代ではないので、何万部売れたとか読まれたとかで評価することはできません。
前田さんは「端的な理由」として以下のように書きます。
「最も多くの写本・版本が残り、四つの書物に関する注釈書が平安末期から江戸末期まで営々と作られ、パロディーや絵画資料を含めて大量の複製作品が生み出されてきたからである」
これは決して日本特有のことではないと、前田さんは別の言い方もしています。
「一般社会通念としての「古典」とは、歴史という長い時間の中で、他者の視線に耐え抜いた書物を指すことが支配的なのである」
「注釈や注釈書をもつ権威を有する書物が古典であったという明確な事実である。その点は、文明社会間の差異を超えて一切のぶれがない」
「『古今集』『源氏物語』『和漢朗詠集』、遅れて『伊勢物語』の注釈が始まったが、注釈が全面展開していくのは、鎌倉中期から南北朝時代を経て、室町期になってからである」
「それでは、鎌倉前期において起こった問題は何か。それは、古典本文の校訂等を受けて古典および和歌が公共圏として位置づけられていくことである」
校訂とは「一つの古典のいろいろの本をくらべて、正しい形をしめすこと」(三省堂国語辞典7版)、印刷できない以上、作品は人の手によって写されます。当然写し間違いが起きる、また、意図的に書き換えてしまうこともあるでしょう。
そのようないくつもの写本をくらべて、おそらくもともとはこうであったろうと整理するのが校訂、そして、わかりにくい部分に注釈(説明・解説)がつくと、より読みやすくなり理解が深まる。人気がある(読みたいという需要がある)から校訂をし、注釈がつけられる、それによっていっそう読みやすくなり、さらに読者が増える、という循環ですね。
2023.12.25
「古典を学ぶ価値や意味はあるのか」と、今回紹介する本ではいきなりストレートな問いが投げかけられます。学校教育の現場でずっと言われ続けてきた問い、といったら担当の教員に叱られるでしょうか。
筆者の前田さんは
「世間を生きる大部分の人たちにとって、古典(古文・漢文)とは訳の分からないもの、少しまじめな人でも、中間期末試験に際して、現代語訳を覚えるもの・・・」
ほらほら、もううなずいてませんか、さらに
「苦痛の記憶として認識されているのではあるまいか」
「古文・漢文を苦手とする割合が高い理系の人たちにとって、古典は不俱戴天の、あるいは抹殺したい敵であったに違いない」
ここまで言われ、書かれてしまいます。もちろん、このような本が書かれるわけですから、いやいやそうではない、という内容なわけです。
古典教育に関する批判は明治時代からあった。
「学校教育制度が整備されたり、国文学なる学問が成立したる時期に照準をあわせるように、早くも古典教育批判は始まっていた」
前田さんはこの古典教育批判の長い歴史に向き合います。そして
「日本という国に生まれ生きるということは、古典・古典語という文化的伝統をもった国に生まれ生きるということを意味する。これを勝手に拒むのは自由だが、ある意味で避けられないのである。(略)古典・古典語をもった国・地域に生まれた人間にとって古典とは<宿命>であるとだけ述べておこう」
と力強く宣言するのです。
ここでいう文化的伝統ですが
「前近代の世界は、古典・古典語をもつ国・地域とそうでない国・地域とに分かれている」
この古典・古典語を持つ国・地域として、日本が入る「漢文文化圏」をはじめ、「アラビア語文化圏」、ヨーロッパの「ラテン語文化圏」などが例示されます。ちなみに、古典・古典語をもたない国・地域は中南米のマヤ文明やインカ帝国、サハラ以南のアフリカの諸王国があげられています。
そして
「そうした中で、「和漢」二つの古典をもつ日本は特異な位置づけにある国だと言ってよい。というのも、日本の「和漢」という二つの古典・古典語の間には価値の差異がさして見られないからである」
このような特徴を持つ日本の古典・古典語をもっと重要視しないといけないと前田さんは強調しているわけです。
その前田さん、日本における古典の中の古典を四書あげます。さてなんだと思いますか。教科書で習った作品などを思い浮かべ、考えてみてください。
ジャンルでは一番多いであろう歴史関連、ミステリ・推理小説、さらには鉄道関連、時おり音楽の話もまじえながら今年4月から書き綴ってきましたが、ここで古典(古文・漢文)に関する本をとりあげます。
「えっ、なんで」という感想をもたれるかもしれません。ほぼほぼ年の瀬、来年を見越しての「本選び」、見当をつけていただいたでしょうか。お答えは、この項の最終日に。
2023.12.23
23日は2学期の終業式。諸般の事情から校内放送で生徒のみなさんに少し話をさせていただきました。
内容については学校ホームページの新着ニュースで紹介しています。こちらからどうぞ。
年末のニュースとしてはおなじみの「今年の漢字」の話をしました。「税」でしたね。式後、読ませていただいた1学年のあるクラスの学級通信にこんな話が載っていました。
担任が生徒たちに「今年1年を漢字で例えると何ですか」と質問、その答えがいくつか紹介されています。
多かったのが「初」「新」、1年生です、「初めての高校生活、初めて出会う友人、初めてが多かった」と担任がコメントしています。
さらに「楽」は「らく」でなく「楽しい」の方とのこと。東野高校に入学して楽しかったと感じてもらえたらこんな嬉しいことはありません。
そのほかに「伸」(成績の伸び)「考」(高校生になって考えることが増えた)「努」などもあったとのこと。頼もしいです。
2023.12.22
歴史小説・時代小説家としてこのところ一番注目されている作家でしょう。今村祥吾さんの最新刊、面白く読ませていただきました。
2022年『塞王の楯』で直木賞を受賞した今村さんですが、本屋さんの応援でも知られています。街の書店を残したいという思いから廃業の危機にあった書店の経営を引き受け、また「今村翔吾のまつり旅」と称して全国47都道府県の本屋さんなどをめぐるツアーを行いました。「自宅に帰ることなく全国をワゴン車で巡り」(公式ホームページより)、118泊119日で完走したそうです。
その今村さんの最新作がこの『戦国武将伝』です。特徴的なのは「東日本編」「西日本編」の2冊がセットとなっていること。「まつり旅」ではないですが、47都道府県から1人ずつ戦国武将をとりあげて短編小説に仕立てています。その短編が上下に分かれてまとめられています。
新聞広告だったと思いますが、今村作品はこれまでもいろいろと読んでいることもあってすぐに購入しました。47都道府県といっても、例えば合戦の舞台としての地名、あるいは著名な戦国武将、大名とすぐに結びつかない都道府県があります。それだけに、あえて前知識なしで読み始めました。
例えば東日本編、北海道は蠣崎慶広、青森県は津軽為信、「蠣崎氏」「津軽氏」は知られた「家」ですが、個々の武将となるとちょっと、といったところ。岩手県の北信愛、秋田県の矢島満安などは初めて聞く名前でした。西日本編は戦国時代のありようとして比較的「知名度」のある大名、武将が多いような印象でしたが、それでも大分県・戸次道雪、香川県・十河存保などは新鮮でした。
それぞれの小編ではいわゆる大名のふるまいに限らず、大名とその子どもたち、あるいは部下とのつながりなどが描かれます。むしろ、そのような「周辺」の人物が主人公といった作品もあります。そんな工夫があるので同じような話にはなりません。というか、同じようにしないのが作者としての力量なわけですが。
もちろん、徳川家康(東京都の「枠」です)、織田信長、豊臣秀吉、武田信玄、上杉謙信なども「忘れずに」登場します。これらの人物については数多くの小説が書かれてきたわけで、「いまさら」と思わせない新しさが必要ですし、ましてや短編です。ある意味こちらこそ作者の腕のみせどころかもしれませんね。
滋賀県・石田三成のタイトルが「四杯目の茶」。滋賀の寺に預けられていた三成が寺を訪れた豊臣秀吉に気に入られるきっかけになったと語られてきた、三杯の茶。のどが渇いているだろうから最初はぬるい、薄い茶を出す、だんだん茶を濃くしていくという、あれです。実は四杯目があった、という想定です。
広島県・毛利元就の「十五の矢」。元就が子どもたちが協力して毛利家を盛り立てていくことを教え諭すために、矢1本では容易く折れてしまうが3本が束になったらという、これも有名な「あれ」ですね。これが「十五本」、ややっ、という感じですね。
鹿児島県・島津義弘の「怪しく陽気な者たちと」では、実質的な主人公は井戸又右衛門という伊賀・山城に勢力があった筒井家の家臣。それがなぜ島津、という意外性が面白い。関ヶ原合戦に西軍として加わりながらほとんど戦わずに戦線離脱して鹿児島に逃げ帰る島津義弘の話はこれもいくつかの傑作小説となっているのですが、こんな切り口があるのかといたく感心させられました。
今村さんの公式ホームページはこちら
2023.12.21
トロリーバスについて長々と説明を書いてきました。もちろん(自慢話か)この2路線とも乗ったことはあるのですが(というより書いたようにこれに乗らないと「立山黒部アルペンルート」は楽しめない)、自分史としては東京都内でもかつてトロリーバスが走っていたことをうっすらと覚えているだけに、感慨深いニュースだったということもあります。
「(東京都)交通局は、こうした都電や都バスの整備に加えて、電車のように電気を動力源として道路上を走る「トロリーバス」を導入しました。(略)1952(昭和27)年5月20日に上野公園ー今井間で開通したのが最初で、1958(昭和33)年までに4つの路線が開業し、101から104までの系統番号を付けました」
「トロリーバスは都電より建設費が安く、電気で走るのでバスのように軽油に依存しないという利点があります」
レールを敷かなくていいので建設費が抑えられるということでしょうか。
『あゆみ』には1967年6月現在での「電車案内図」が掲載されていて、「無軌条電車」として池袋駅前からは3系統がのびています。これです、当時住んでいた家から一番近かった繁華街が池袋でした。今の池袋駅東口、西武デパートやパルコのある側には都電の駅があり、トロリーバスも走っていたのです。
「しかし、バスに比べて収容能力は大きいものの路線の設定が柔軟でなく、架線などのトロリーバスに電気を供給する設備を維持する必要があったことから、その後トロリーバスは廃止され、通常のバスによる運行となっていきます」
ちょっと奥歯にものがはさまったような、苦しい表現のような気がするのですが。別のところにはこう書かれています。
「昭和30年代後半になるとマイカーが急速に普及し、交通渋滞が都内各地で起こるようになりました。トロリーバスにとっては、とても走りづらい時代に突入します」
「同じ道路を走る仲間でありながら、モータリゼーションの波に呑まれてしまったトロリーバス。(略)トロリーバスはわずか16年で東京から姿を消しました」
『日本のトロリーバス』(吉川文夫、電気車研究会・発行、1994年)には東京だけでなく、かつては京都市、名古屋市、川崎市、大阪市、横浜市にもトロリーバスが走っていた歴史が紹介されています。東京については以下のように書かれています。
「トロリーバスの表定速度は、自動車交通の波に押されて年々低下していく。(略)収支も昭和32年度(1957)からは赤字に転落、財政再建計画のなかで、路面電車とともにトロリーバスも廃止の方針が打ち出され、昭和42~43年(1967~68)にかけて全系統が廃止、バス化されていった」
表定速度とは停留所での停車時間も含めての時速といった業界用語で、1952年の開業時16キロだったものが67年には12.3キロになったとされています。つまり、自動車が増えて渋滞に巻き込まれ、トロリーバスに乗っての移動に時間がかかるようになってきた、そうなると利用者は減っていくという悪循環です。引用にあるように、各都市で路面電車が次々と廃止になっていくのとまったく同じ理由だったということです。
路面電車は最近になって脱炭素化の流れで見直されつつありますが、「鉄ちゃん」として忸怩たる思い、正直いって時すでに遅し、何を今さらという気がします。というのも、路面電車がヨーロッパの各都市で今も活躍しているのと同様にトロリーバスもヨーロッパでは結構残っているのです。
ただ、路面電車とは異なり、電気で自走できるバスが登場しつつある今、わざわざ保守に手間のかかる架線を張ってまでトロリーバスを走らせるのは、これは現実的ではないでしょう。そういう交通機関もあったと歴史の1ページに刻まれるということですね。
「関電トンネルトロリーバス」とあり、また『日本のトロリーバス』の企画者というところでもふれましたが、こちらのバス路線の運営主体は関西電力です。いわゆる「バス会社」ではないところから路線の由来を示していますよね。一方で今回ニュースになった立山トンネルを走るトロリーバスやケーブルカーなどを運行しているのは「立山黒部貫光株式会社」という会社です。「貫光」です、「観光」の変換ミスではありませんよ。同社のウエブサイトで社名の由来について説明しています。
「貫光」の「貫」とは時間を、「光」とは宇宙空間、大自然を意味する。日本国土の中央に横たわる中部山岳立山連峰の大障壁を貫いて、富山県と長野県とを結ぶことにより、日本海側と太平洋側との偏差を正して国土の立体的発展をはかり、もって地方自治の振興に寄与せんとする
会社創業者の考えだったそうです。
「立山黒部アルペンルート」を移動すると、長いトンネルを抜けた先で一気に視界が広がり、たっぷりの水を溜めたダム湖(タイミングがあえば豪快な放水)や万年雪の残る高地などの絶景が広がります。確かに大山脈を「貫いた」その先に「光」を体感することができた旅を思いだしました。
東京都内を走ったトロリーバスについて
「新宿歴史博物館 データベース 写真で見る新宿」、「明治通りを走るトロリーバス」のタイトルがある写真です。こちらから
2023.12.20
日本で唯一残っていたトロリーバスが1年後になくなるというニュース。「鉄ちゃん」として? こういう著書を持っています。というか、こういう本もあるんですね。
筆者の吉川さんには鉄道関連の著書がたくさんりますが、この本については「企画者=関西電力株式会社」とあるところがキモ。関西圏に電気を送るため、難工事の末に完成した黒部ダムを造ったのが関西電力、そのダム建設のための資材運搬などを目的にトンネルが掘られ、ダム完成後に観光用の関電トンネル路線として活かされトロリーバスを走らせたわけです。この黒部ダムの建設については映画「黒部の太陽」がよく知られています。
ということで、この本では関電トンネル路線のトロリーバスを中心に、そのメカニズムなどが細かく紹介されており、立山トンネル路線開業前の発行ということもあって
「立山トンネル内を走るトンネルバスはディーゼル車で運行されているが、トンネル内の排気問題や、自然環境保護の意味もあって、平成8年(1996)以降、トロリーバス化されることになった。開通すれば関電トンネルトロリーバスの弟分ができることになる」
はい、そして「兄貴分」が先に電気バスに変わり、「弟分」が残っていたわけですね。
変わった鉄道を紹介するマニアックな本です。「立山黒部アルペンルートに唯一生き残ったトロリーバス」という見出しで、この時点ではまだ残っていた2路線が紹介されています。
「「なんだ、この本はバスも取り上げるのか」と言われそうだが、トロリーバスは鉄道事業法に基づいて運行されており、正式な名称は「無軌条電車」。少なくとも法律ではれっきとした鉄道に分類されているのだ」
「さよなら「トロリーバス」①」で引用した新聞記事にもありました。無軌条つまりレールがないということですね。『日本のトロリーバス』では一般的なバスや鉄道との違いについて、構造など細かいところまで触れられていますが、こちらの『フシギ』では
「トロリーバスだが、外観も内装もバスとほぼ同じ。それでも、外観で目につくところといえばナンバープレートがついていないこと。一般道を通ることがないので不要なわけだ」
「鉄でできたレールを走る電車は、架線から受けた電気をレールに流す。しかしゴムタイヤのトロリーバスは、2本ある架線の一方をプラス、他方をマイナスとする」
このくらい知っておけば十分ですかね。
「黒部ダム」の公式ウエブサイトではトロリーバスの歴史がわかりやすくまとめられています。こちらから
2023.12.19
国内最後のトロリーバスが廃止されるというニュースが先日の朝刊各紙に掲載されていました。「トロリーバス」と聞いても、ピンとこない人が多数派でしょう。相変わらず「鉄ネタ、交通ネタ」とあきれられそうですが、交通政策という視点で考えさせられるところもあるかと。
富山、長野両県をケーブルカーやバスで結ぶ「立山黒部アルペンルート」を運営する立山黒部貫光(富山市)は11日、国内で唯一のトロリーバスの運行事業を2024年12月1日で廃止する予定だと発表した。交換が必要な部品の調達が困難になったため。
トロリーバスは、架線からの電気で走る仕組みで、鉄道の一種「無軌条電車」に分類される。今後は架線を使わない電気バスを導入する。
立山黒部アルペンルートのバスは、立山トンネルの室堂―大観峰間の約3.7キロを約10分で結んでいる。現在8台が稼働し、1996年の運行開始から累計1920万人以上が利用している。
アルペンルートでは、関西電力のトンネルでもトロリーバスが走っていたが、2019年に電気バスに切り替わり、立山トンネルのバスが国内唯一となっていた。
アルペンルートは4〜11月に営業。電気バスへの転換は25年4月からとなる。
「立山黒部アルペンルート」は長野県と富山県の境に連なる標高3000mメートルクラスの山々を貫く観光ルート。自然保護の観点から車が入れず、その代わりにロープウエイやケーブルカーなどを乗り継ぐのがその特徴で、トロリーバスもその一つでした。
かつてはこのルートにトロリーバスが2路線あり、長野県側からルート途中の黒部ダムまでを結ぶ関西電力の路線(関電トンネルトロリーバス)は記事にあるようにすでに電気バスに転換。富山市側の立山トンネルを走るトロリーバス路線が残っていたわけです。
トロリーバスを一言でいってしまえば電車とバスを合わせたようなもの、でしょうか。外見はバスそのもの、ただ屋根からポール(棒状のもの)が伸びています。鉄道の架線と同じように道路の上に架線が張られていて、このポールを通して架線から電気をとり、バス車内のモーターが回って動くということです。
関電トンネルのトロリーバスの開業が1964年、前の東京オリンピックの年で立山トンネルの路線がトロリーバスになったのが1996年からで、その前はディーゼルエンジンのバスが走っていたようです。その立山トンネル路線は全線がトンネル内、関電トンネル路線もほとんどがトンネル内を走ります。立山トンネル内ではディーゼルエンジンバスの排気ガス対策で苦労したようです。そうなると別の仕組みで走るバス、ということになります。
電気で走るバスとなると電気自動車、いわゆるEVのバス版をイメージしますが、両路線の開業時はまだ一般的ではなく、例えば車載のバッテリー(蓄電器)など今の水準から到底実用的ではなかった、それで電気は外(架線)からとるトロリーバスという選択になったのでしょう。
そして関電トンネル路線が先に電気バスになり、立山トンネル路線に国内で唯一トロリーバスが走っていたのですが、部品の交換など支障が出てくるのはやむを得ないところ。運営会社の「お知らせ」によると「車両の更新期にあたり」、記事では「交換が必要な部品の調達が困難になったため」、電気バスに置き換えることになったというわけです。
2023.12.18
「日本新聞博物館(ニュースパーク、NEWSPARK)」を久しぶりに訪ねました。日刊新聞発祥の地である横浜に2000年に開館した施設で、常設展示では新聞の歴史や新聞ができるまでがわかりやすく紹介されており、また、学校での新聞活用のお手伝いなどもしています。博物館を運営している日本新聞協会主催の「第14回「いっしょに読もう!新聞コンクール」の表彰式があったばかりで、受賞作品も紹介されていました。
コンクールの募集要項にはこうあります。
このコンクールは、新聞を読むことで(1)社会への関心の広がりを促す、(2)社会の課題への「気付き」を促す、(3)家族・友だちとのコミュニケーションを促す、(4)考えを深める姿勢を促す、(5)考えをまとめて表現する力を培う――ことを目的としています。また、コンクールを通じて(1)新聞の面白さ、大切さを知ってほしい、(2)新聞を好きになってほしい――という願いも込めています。
かつてお世話になった新聞協会の方が博物館館長をされていて、いろいろとお話をうかがうことができました。コンクールも今年で14回目、私も新聞社在籍時は審査にあたったこともあったのですが、今回の応募点数は約6万点、2番目に多かったとのことで、何よりでした。
さらに、高校生部門で最優秀賞に選ばれたのが埼玉県内の高校1年生の女子生徒さんで、その生徒さんのこと、その生徒さんを指導した先生のことなどを詳しくお聞きすることができました。
小学生部門、中学生部門の最優秀賞作品もすばらしく、若い人たちが新聞を手に取り、社会に関心を持つようになることを頼もしいと感じた一方で、残念ながら「新聞離れ」はすすみ、ジャーナリズムを学ぶ大学生が減っていることなどの話もしました。
新聞社で仕事をしていたからという立場を超えて、フェイクニュースなどのように誤った(あるいは意図的に誤った)情報が氾濫している中を生きていく若い人たちには情報を選別できる力を身につけてもらいたい。そのために学校現場で何ができるのか、引き続き考えて続けていきます。
コンクール受賞作品の紹介はこちらから
日本新聞博物館(ニュースパーク)についてはこちらを