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BLOG校長ブログ

2023.05.15

「三方ヶ原の戦い」その3

しつこくてすいません。NHK大河ドラマ、14日の放送では松本・家康は浜松城から出陣の際、戦いは兵の数ではない、と檄を飛ばしていましたね(自分に言い聞かせていたのかも)。本棚で別の本をさがしていたら、またまた家康、戦国合戦関連の本が視野に入ってしまいました。「そうそう、これがあった」と。

まず、タイトルがずばり「徳川家康」。武家社会研究の笠谷和比古さんの著作で、歴史人物伝としては定評のある「ミネルヴァ日本評伝選」の一つなので、家康研究のスタンダートとも言えそうです。

笠谷さんは、武田信玄の軍が浜松城を素通りしたことについて、「侵攻する行く手にある城は必ず落としてから進む、少なくとも攻城軍を差し向けて包囲し城内兵力を封じ込めるというのが戦いの常道」なので、素通りするというのは侮辱的な行為であり、武田側の挑発行為であることは疑いなかった、武田のおびき出し作戦とわかっていながら家康が出陣したのは「これを空しく見送るとあっては武将として末代までの恥辱として、あえて打って出ることを決意し」と書いています。

「三方ヶ原の戦い」の見方についてすでに紹介した本郷和人さん、磯田道史さんたちより笠谷さんはちょっと先輩で国際日本文化研究センターの名誉教授(磯田さんは同センターの現役の教授です)。この「三方ヶ原の戦い」については手堅い分析と言えそうです。(というか本郷さん、磯田さんのとこで紹介した「これまでの説」がまさにこういった内容でした)

「三方ヶ原の戦い」についてさらに書くならもっと異なった説でないとおもしろくない? と考えていたら、ありました。

「お金の流れで読み解く徳川家康」( 大村大次郎、2023年)

家康の経済力(お金)は信長、秀吉を上回っていて、それが天下人家康をつくった、という切り口です。経済力に着目すること自体はそんなに驚くべきことではないでしょう。先に紹介した本郷和人さんも軍事力を支えるのは経済力と明確に書いていますし。

ただ、筆者の大村さんは、武田信玄の領国・甲斐(山梨県)信濃(長野県)は経済的に豊かとはいえず、信玄が甲斐を出て大軍で西を目指したがかなり無理をした。西に進めばいやおうなしに織田信長軍と戦わなければなりません(信玄も天下を取るために京都を目指したという説に対して信玄はそこまでは考えていなかったという説もあるようですが、ここでは立ち入りません)。

その織田軍との決戦を前にして浜松城を包囲しても城を落とす(家康に降参させる)にはそれなりの時間がかかるだろうし、兵隊の食料なども相当量必要になる、兵站(軍の後方支援)に不安がある、武田軍には浜松城を相手にするだけの経済的な余裕がなかった、と書いています。攻める余裕がなかった、攻めたくても攻められなかったというのです。
史料の裏付けが書かれていないところが気がかりではありますが、私にとっては「新説」でした。

「戦国15大合戦の真相 武将たちはどう戦ったか」(鈴木眞哉、平凡社新書)

本の書き込みをみると2003年に読んでいて、恥ずかしながら内容はほとんど覚えていなかったのですが、鈴木さんはいわゆる「定説」に遠慮なく物言う方なので、今回読み直してみると、私の期待に応えてくれました。

「この合戦(三方ヶ原の戦い)も徳川家の歴史のなかでは大変重要視されているので、江戸時代の多くの軍記などが扱っているが、負け戦さを勝ち戦さというわけにもいかない。そのため、ずいぶん苦労して、あれこれ格好をつけたりしているようなところがある」ので、軍記物では家康の決断で出陣したという話になる。

ところが「史料をよく眺めてゆくと、待てよ……といった記述にぶつかる」、武田軍が浜松城の近くを通過しようとするのを見物にいった家康側の兵が武田方に石を投げるなどした、武田側も投げ返すなどしているうちに、本格的な戦いになった、家康はそんな部下たちをいさめよう、引き上げさせようとやむを得ず出陣した、そこから本格的な戦いに発展した、家康は戦いに巻き込まれた、そんなことが書かれている史料がいくつかあるとのこと。

つまり決断して出撃したわけではなく、だから戦いの準備も十分でなかった、加えて兵の数でももともと武田に劣るのだから家康軍が戦いに勝つ見込みはほとんどなかった、というわけです。

もちろん、この鈴木さんが引いている史料についても吟味しなくてはならないわけですが、江戸時代になると、家康は幕府を作った創業者ですから、家康は負けたにしても偉かった、すごかったと、家康を称えなければならなかった、と。歴史史料に向き合う時参考になる例ですね。

このように「三方ヶ原の戦い」でもいろいろな見方があります。NHKの大河ドラマでこの後も家康の生涯が描かれいくわけですが、私自身が前半のハイライトと勝手に考えているのが、家康の妻・築山殿と息子信康が死に追いやられる事件。これにもいろいろな説があり、可能ならばまた取り上げますが、ドラマでは家康と築山殿が仲睦まじく描かれているだけに、この事件がどう描かれるのか注目しています。

あとは「関ケ原の戦い」、こちらは笠谷さんの研究がこれまでほぼ定説とされてきたのですが、近年、新たな研究が出てきて、結構盛り上がっています。こちらも大河ドラマの展開にあわせて、ぜひ。まだだいぶ先ですかね。