2023.06.26
先日休刊した週刊朝日での後藤正治さんの連載をまとめた『クロスロードの記憶』(文藝春秋、2023年)が発行され、感慨深く読ませていだきました。
ノンフィクション作家として40年を超えるキャリアを持つ後藤さんがこれまでの作品の登場人物について別の人物との関わりという形で振り返ります。人と人との関りというところから{クロスロード(交差点)」というタイトルになったようです。週刊朝日での連載も時々読んでいて、それぞれの回でとりあげられる人を対象とした後藤さんの作品を思い出しては再読したりしました。
例えば、江夏豊投手と阪神で同僚だった川藤幸三選手。江夏投手については現役時代に一緒にプレーをした選手や取材した記者らから話を聴きまとめた「牙(きば)―江夏豊とその時代」(講談社、2002年)というすばらしい作品があります。もちろん川藤選手とのことも一章をさいて綴られています(「江夏の21球」を紹介する時(4月21日のこのブログ)に参照しようとしたらついつい読み返してしまいました)。
「スカウト」(講談社、1998年)というプロ野球の名スカウトを追った作品、広島カープにスカウトとして30年間在籍した木庭教さんへの取材を重ね、木庭さんがどのような経緯でスカウトになったのか、スカウトとして出会った球児たちのことを聴きだしていきます。カープに入団した選手もいればうまくいかなかった例もでてきます。
後藤さんは「クロスロード」で「スカウト」の取材について「お目当ての選手を見詰め、のんびりと野球観戦し、帰り道に喫茶店に立ち寄り、昔話に耳を傾け、雑談する。そんな日々を足かけ三年送った。退屈したことは一度もなかった。当初の心づもりでは一年だったのが三年に延びた。そんな日々が楽しかったからだと思う」と振り返っています。
1964年の東京オリンピックで世界を魅了した体操選手ベラ・チャスラフスカに会いにチェコ・プラハに出かけ(「ベラ・チャスラフスカ 最も美しく」(文藝春秋、2004年)、「マラソン・ランナー」(文春新書、2003年)では君原健二、瀬古利彦、谷口浩美、有森裕子、高橋尚子選手らが登場します。「クロスロード」では「マラソン・ランナー」で取材した選手たちについて「いずれも豊かな内面の持ち主で、きちんと自己表現をする人たちだった」と評価しています。
スポーツ分野では同志社大学ラグビー部の名指導者、岡仁詩さんをとりあげた「「ラグビー・ロマン―岡仁詩とリベラル水脈」があるのですが、岡さんとその教え子たちの章は週刊朝日で読み、すぐ「ラグビー・ロマン」を手にしました。
私は学生時代、同志社大学ラグビーの全盛期に東京・国立競技場(オリンピックで新しくなる前の国立です)でその試合を観戦したこともあり(なぜだが東京の強豪大学を応援しないで同志社を応援しました。ひねくれていたんですね)、また京都で新聞記者をしていると、市役所などに同志社大学ラグビー部のOB、つまり岡さんの薫陶を受けた人が結構いて、ずっと気にはなっていただけに、「ラグビー・ロマン」は大変興味深く読みました。
後藤さんはこのようなスポーツ分野に限らず、医療関係についての著作も多く、特に心臓移植、臓器移植についてはかなり早い時期から海外取材も積極的に行い、この分野のノンフィクションの先駆けとなる著作がいくつもあります。
国内では1968年に札幌医大での国内初の心臓移植手術が刑事告発されたこともあってその後、心臓移植が行われない時期が続きました。臓器移植を選択せざるを得ない患者さんは外国で移植手術を待つことになるのですが、多額の費用がかかります。その支援のための寄附呼びかけなどがニュースとなり、そんな取材現場の京都市内の病院で後藤さんをお見かけすることがありました。取材対象を超えた担当の医師との信頼関係がはたからもうかがえたことが印象に残っています。
後藤さんが著作を次々に発表するころから、ノンフィクション作品に筆者が「私」として登場することが多くなってきたように思います。「スカウト」のところでも触れたように、どのような場所でどういった流れで取材になったのか、取材相手の表情や口ぶりなども細かく書いていく。そして「私」の思いも遠慮なく書く。今ではノンフィクションでは当たり前の手法ではありますが、当時は「客観的でなければらない」という新聞記事の書き方とは異なっていたので、一連の著作が新鮮だったのでしょう。筆者の人がらが感じられたのです。
後藤さんは「「復活」十の不死鳥伝説」(文藝春秋、2000年)で「大きな挫折と遭遇し、深い谷底にある時間を過ごし」たスポーツ選手十人を取り上げ、「人はどんな状況に置かれても立ちすくむことなどない。いつだってまた歩み始めることができる」と書いています。
「弧塁に刻む 自選エッセイ&ノンフィクション集」(1998年、三五館)ではそれまでの20年間を振り返り「結局、私は、<人生>を書きたかったのだと思う。それが私にとってのノンフィクションであり、それ以外のことには根本のところで興味を持つことはなかった」とし、野球やボクシングは「<人生>を描くために借りた土俵」と表現しています。
後藤さんは「日本における移植外科は、その出発において非常に不幸なスタートを切った。すでに二十三年前になるひとつの臨床例が、いまだ翳をおびたものとして語り続けられていること自体、異様なことという他はない」と札幌医大の例に触れています。そのうえで、もともと医療問題の関心度も低かったのに長く取材をすることになった理由として「宿命的な困難を帯びた医学分野をあえて選んだ外科医たちの仕事に、いささか心ひかれるものを感じたから」と書いています。
ここでも「人」です。やはり、人の生き方に対する興味というノンフィクションの原点が感じられます。