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BLOG校長ブログ

2023.05.22

「西鉄ライオンズ」を知っていますか

プロ野球・西鉄ライオンズの選手、監督だった中西太(ふとし)さんの訃報が19日、新聞に掲載されていました。1952年に西鉄入団、56年~58年の日本シリーズ3連覇を果たした西鉄黄金時代の中心選手の一人で、西鉄の監督を務めた後、ヤクルトや日本ハム、阪神などで監督や代理監督、コーチもしました。

新聞に掲載された、亡くなられた人の仕事や業績などを人がらも含めて紹介する「評伝」も、現役時代を知る記者はさすがにもう新聞社にはいないでしょうから、監督、コーチなど指導者としての中西さんの話が多いように感じました。

日本シリーズ3連覇は私が生まれたころで、私だってもちろんプレーヤーとしての中西さんを知るわけではありませんし、同じ西鉄の「鉄腕」稲尾和久投手らと同じく「伝説」の野球選手です。ただ、この西鉄というチームがその後になくなってしまうこともあってか、「西鉄ライオンズ」そのものもやはり「伝説」のように郷愁を持って語られることがしばしばです。

西鉄黄金時代が終わって65年から73年まで巨人の日本シリーズ9連覇(V9)があり、その組織だった野球とは対照的で、「野武士集団」などとも呼ばれた「西鉄」が伝説として語られていった側面もあったのでしょう。

「西鉄ライオンズ最強球団の内幕」(河村英文、葦書房、1983年)、筆者の河村さんは53年~59年に西鉄に在籍した投手です。もちろん中西さんも登場しますし、名将と言われた三原脩(おさむ)監督の指導法や采配などが詳しいのは当然ですが、「赤裸々な西鉄の姿を語りたい」と書くだけあって、旅館が合宿先だったことや寝台車利用での遠征など球場外のエピソードも豊富です。

ファンとしての西鉄黄金時代を観戦した赤瀬川隼さんの「獅子たちの曳光 西鉄ライオンズ銘々伝」(文藝春秋、1991年)は、選手を一人ずつとりあげる形で「ライオンズ=獅子」を描きます。プレーヤー中西について「素人の僕にも、彼の巨体と俊敏さの一見不思議なバランスが、足腰と手首の強さと柔らかさに発することは、彼の打撃と三塁守備の両面でよくわかった」と語っています。

一方で、1965年生まれでプレーヤー中西を見ようもなかったライターが中西さんにインタビューしたのが「伝説のプロ野球選手に会いに行く」(高橋安幸、白夜書房、2008年)。「野球小僧」という雑誌連載をまとめたもので中西さんはその「会った」中の1人。約束の1時間が3時間になったという中西さんの話の中にこんな一節がありました。

中西さんは三原さんの指導を自分も受け継いでいるとし、それは「人の長所を見て、合ったところで使う野球。それで自信を持たしてあげて、その中で短所を見つけてやれば、短所もスムーズに消えていく」
「しかし、長所を見抜くことは簡単にはいかんよ。本当に愛情を持ってみてやらんとね、見落とすわな」とも。

中西さんの訃報に接して、西鉄関連の本を引っ張り出してきたのにはもう一つ理由があります。この西鉄黄金時代を支えた1人に、イチロー選手を見出し育てた仰木彬さんがいたからです。

最近、別のところで読んだのですが、仰木さんが選手育成術について尋ねられた際「オレが育てた選手などいませんよ。彼らが自然と大きくなっていくのを邪魔しなかっただけだ」と答えたということに感銘を受けたからです。

赤瀬川さんは「銘々伝」で、三原監督が説教をする時の叱られ役はたいてい仰木選手だったとし、「なぜ仰木が叱られ役になったか。僕(赤瀬川)は、三原が大勢の若者の中で特に仰木に、プレーヤーとしての素質とともに、将来の指導者の資質をも見抜いていたのからではないかと思う。監督やコーチは、選手の特長に合わせ、力が出やすいように意欲を引き出す役である。三原もそうし、仰木もそうした」

中西、仰木、そして三原、こんな方たちに指導されたら幸せですね。そしてそれが「西鉄ライオンズ」の遺産だとしたら、こんな素晴らしい遺産はありませんよね。