2023.06.15
まずはこの写真から。このように並ぶと何ですか? と疑問・興味がわきますよね。
『土偶を読む』(竹倉史人、晶文社、2021年)は「土偶の謎をついに明らかにした」と話題になった本で、著名人からの賞賛も多くサントリー学芸賞を受賞しました。私も発行後、ほどなく読みました。この本に真っ向から反論したのがつい先日発行の『土偶を読むを読む』(縄文ZINE編、文学通信、2023年)。「『土偶を読む』を大検証! 土偶の正体を解明した? そんなわけあるかぃ」と刺激的です。
土偶の説明として辞典的には例えば「人物や動物の形に作った土製品。日本では縄文時代に流行」とあり、ハート型、山形、ミミズク土偶、遮光器土偶などがあり、土偶の用途について「母性原理の表示手段として、出産・豊穣・再生にかかわるという解釈がある。ただしその多彩なあり方から、用途・役割はなお不明な部分が多い」とされています(「岩波日本史辞典」1999年第1刷)
『土偶を読む』(以下『竹倉本』とします)の筆者は人類学者で、筆者紹介によると「世界各地の神話や儀礼を渉猟する過程で、縄文土偶の研究に着手することになった」。
「土偶は縄文人の人の姿をかたどっているのでも、妊娠女性でも地母神でもない。<植物>の姿をかたどっているのです。それもただの植物ではない。縄文人の生命を育んでいた主要な食用植物たちが土偶のモチーフに選ばれている」とし、「私の土偶研究が明らかにした事実は、現在の通説とは正反対のものである」と言い切ります。
引用した日本史辞典は発刊年からすればだいぶ時間が経過はしていますが、ほぼ「現在の通説」と言えるでしょう。それに対して「事実は正反対」と言っているわけです。
『竹倉本』ではいろいろな土偶をとりあげ「そのモチーフはこれだ」と示していきます。著書では土偶の写真とそのモチーフとなった植物の写真を並べて説明していきます。写真を見ていただくのが手っ取り早いのですが、著作権があるので簡単ではありません。
悩んでいたら、2018年に東京国立博物館で開催された特別展「縄文--1万年の美の鼓動」展の案内チラシが手元にありました。約35万人の来場者があり「縄文ブーム」とも呼ばれた展覧会でした。そこに載っている土偶が『竹倉本』でいくつもとりあげられています。
1例として「美のはじまり」と大きく書かれている赤色基調のチラシ(写真右)の土偶は北海道函館市で見つかった、国宝に指定されている「中空土偶」と呼ばれる土偶です。『竹倉本』ではこの土偶の頭が「クリ」の形と似ていることから「クリをかたどったフィギュア」だと言うのです。『竹倉本』の表紙の写真にこの土偶の頭部の写真とクリの写真が「=」で結ばれていますね。
では『土偶を読むを読む』(以下『読むを読む』とします)はこの土偶をどう見るのか。こちらの本は何人かの考古学者がいろいろな角度からの分析、反論を書いています。
「中空土偶」について、平面的にはクリに似ていても立体的にみるとどうなのかと疑問視し、さらには、この土偶の頭部には大きな穴が二つ空いていて、類似の土偶から、頭にラッパなような二つの大きな突起が付く土偶だと推測される、と説明します。そうなると、ぜんぜんクリには似ていない、というわけです。『読むを読む』の表紙の写真では土偶の頭部の写真とクリの写真が「≠」で結ばれています。本のつくりも表紙からして「対決」しているわけです。
この遮光器土偶について『竹倉本』では「サトイモの精霊像」としました。これに対して『読むを読む』では、食用植物をモチーフにしたと言っているが、遮光器土偶が出ているのは北東北、そこではサトイモは育たない、サトイモ精霊像説は成り立たないのではないか、というわけです。
このように、『竹倉本』がモチーフとした取り上げたクリ、オニグルミ、ハマグリはモチーフにしたという土偶の出現時期や範囲よりもかない広く長く利用され、土偶の出現との関連はまったく見えない、同じくモチーフとされたイタボガキ、トチノキ、イネ、ヒエに至っては、その土偶の出現時期に食用利用された形跡がほとんどないと批判します
また、土偶のデザインと土器のデザインや文様は共通するとことがあるのに、土器との関連についてもほとんど触れられていない点にも疑問を呈します。
遮光器土器のフィギュアです。なかなかよくできていると考えますが、いかがでしょう。
どこで手にいれたか……博物館のショップだとは思うのですが。
土偶(もちろん土器も)はヒトがつくるものなので、当然、前の時代からの流れを受け継ぎます。微妙に形が変わっていくわけですが、その流れの大きな特徴をとらえて制作時期を特定して分類し、その特徴が何を表すのか、作者が何を表現しようとしているのかを考えていくのが「編年」という従来からの研究方法であり、似たような土偶と比較する「類例」も研究手法としては必須のはず。しかし『竹倉本』では編年・類例はほとんど考慮されず、流れの中の一つにたまたま自説にあった形のものを取り出して似ていると決めつけていると、かなり厳しい口調です。
『読むを読む』は「時代時代で斬新的に変化する土偶の形態変化の中に(人体や女性性以外の)モチーフが滑り込む隙間は限りなく小さい」のだから、土偶にモチーフはあるという思い込みを捨てて土偶を見詰め直す必要があると結論づけています。
では私自身は『竹倉本』をどう読んだのか。『竹倉本』での個々の土偶のとらえ方、詳細な記述はあまり覚えていないのですが、「結構大胆に言い切っているな」という印象は持ちました。筆者の書きようが、いわゆる考古学の専門家のこれまでの研究に対して挑戦的だということがその印象を強めたのでしょう。
自分は『竹倉本』のどこを重要、あるいは注意と思ったのか、問題意識を持って読めたのか、ページを折ったところに何が書かれているかチェックしてみました。ドキドキ。
「本書の目的はあくまでも土偶のモチーフの解明、土偶の用途論についての見解は改めて発表する」
「遮光器土偶の体高と横幅の縦横比が白銀比になっている。日本人が最も好む縦横比で、日本人になじみのあるキャラクターも縦横がほぼ白銀比になっている」(この点は『読むは読む』で遮光器土偶の高さと横幅の比率は土偶によって千差万別、と退けられています。これも編年・類例を参照していない例とされています)
「遮光器土偶は意図的に立たないように造られている。あえてそうしたのは、遮光器土偶は礼拝や鑑賞の対象ではなかったということ、そしてこの土偶が寝かせた状態で使用された呪具であったことを意味している」
あれあれ、用途論についての見解は後で、としながら、遮光器土偶については用途に言及していますね。まあ、このあたりは重箱の隅……になりそうですし、私もそれが理由でしるしをつけたわけではないでしょうし。
後から読んだ本の方がどうしても印象が強いのでそこを差し引いても、個人的には、やはりこの土偶という不思議な土製品がどのような願いをこめて作られ、また実際にどのように使われたのか、そこから想像される縄文時代に生きた人たちの精神の方に興味がありますね。
なお、上記のように土偶そのものも写真はそのまま出しませんでしたが、以前にも紹介した東京国立博物館のデジタル資料「画像検索」で重要文化財指定などかなりの数の土偶の画像を見ることが可能です。こちらです。