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BLOG校長ブログ

2023.06.09

長篠の戦い その2

長篠の戦いの評価、位置づけで研究者の意見が分かれるのは武田の騎馬軍団もですが、やはり鉄砲の問題が一番でしょう。信長が戦場に持ち込んだ鉄砲が3000挺もあったのか、そしてその3000挺でいわゆる「三段撃ち」があったのかという点です。

<鉄炮3000挺について>

信長の秘書的立場にいた人物の書いた「信長公記」が信長研究の一級史料とされていますが、印刷のない時代にいろいろな人によって書き写された「写本」がいくつも存在し、三千挺と書かれてあったり、千挺と書かれてあったりすることから意見が分かれているようです。

前回ブログで紹介した平山優さんと同じく、NHK大河ドラマ「どうする家康」の時代考証を勤めている小和田哲男さんは「戦国の合戦」(学研新書、2008年)で「一〇〇〇挺なのか三〇〇〇挺なのかの決着はまだついていない」と慎重な書き方をしています。前に紹介した本郷和人さんの「天下人の軍事革新」(祥伝社新書、2023年)では「一〇〇〇(三〇〇〇とも)挺もの鉄砲で一斉射撃を行います」とあります。

藤田達生さんは「戦国日本の軍事革命」(中公新書、2022年)で「有名な三千挺・三段撃ちについて、現時点において検証できないが、千挺単位の鉄炮を有効に使用して快勝したことは確実である」とまとめています。

平山さんは「この戦いで信長が使った鉄炮(この表記を使っています)は一五〇〇挺プラスアルファ、鉄砲が大きな役割を果たしたことは間違いないが、あまり過大に考えないほうがよい。織田・徳川軍が鉄砲を有効に使えたのは、野戦築城と組み合わせたから」とします。
本郷さんも馬防柵を主とした野戦築城の役割を重視しています。

鉄砲の数については、新しい確定的な史料が今後出てくることはなかなか考えにくいので、それなりの数はあったが3000挺にはしっかりとした根拠はない、といったあたりで落ち着くのではないでしょうか。

この数とは別に、その鉄砲をどう使ったのか、それが勝敗にどうかかわったのか、平山さん、本郷さんがいうところの野戦築城とも大きく関わるのが、三段撃ちの検討でしょう。

<三段撃ちについて>

小和田哲男さんがわかりやすくまとめてくれています。
「鉄砲隊が一〇〇〇挺ずつ三段に構え、「放て」の号令一下、一〇〇〇挺の鉄砲が一斉に火を吹く、撃ち終わると最後尾に回り、二列目だったものが最前列に出、同じように「放て」で撃ち、最後尾にまわるというものである。これによって、鉄砲一挺だと、弾ごめなどに時間がかかる欠点を克服したとし、信長の鉄砲革命といわれてきた」。そのうえで「地形的にも無理だということが論証され、敵が横一列になって攻めてくるならまだしも、バラバラに攻めかかってくる状況で、「号令一下、一斉に」ということはまったく必要ないわけで、絵空事だと結論づけられている」と明確です。

とはいえ、小和田さんは「最近は、鉄砲足軽が三人で一組になり、いつでも弾が発車できる状態にしていたのではないかとする考えが主流」とし、三段撃ちを全否定するのではなく、「馬防柵とセットで、鉄砲足軽三人一組による三段撃ちはありえたのではないかとみている」と、少し含みを持たせています

「絵空事」との表現を使っているわけではありませんが、三段撃ちを全否定するのが鈴木眞哉さん。

「戦国15大合戦の真相」(平凡社新書、2003年)で「小瀬甫庵(おぜ・ほあん)の創作、実行できる可能性も乏しければ、実行する必要性もない戦法、信長が戦場に並べた銃兵は、あちこちからかき集めてきた連中だった。一度も一緒に訓練したことのない兵士たちに、いきなり<三段撃ち>などという難しいことをやれといったところで、絶対にできるはずはない」と。いやはや、強烈ですね。

平山優さんは「長篠合戦と武田勝頼」(敗者の日本史9、吉川弘文館、2014年)で「決戦場においては1000挺であったとする考え方が定着」しつつ、三段撃ちについては、史料にある「段」は当時、将兵を列に配備することではなく、部隊をしかるべき場所に配置することを意味していた、と解釈し、織田軍の鉄炮衆は三部隊に分割され、三か所(三段)に配備された、その部隊内部で銃兵は複数列に編成され、輪番射撃が実施されていたと思われる、と結論づけています。

当時の鉄炮は撃ってから次を撃つまでにどうしても時間がかかるので、その間に攻め込まれることはやはり心配であり、撃つ兵隊の後ろの列で準備をして(複数列の編成)、入れ替わりながら撃つ(輪番射撃)という工夫はあった、という考え方ですね。

平山さんは、まだまだ開発途上の武器である鉄炮は故障などで射撃ができなくなることも容易に予測できたので、鉄炮衆の周りを弓の部隊が囲み、武田軍の接近を防いだのでは、と付け加えています。

いずれにしても、かなりの数の鉄砲を用意し、かつ、当時の鉄砲の欠点を補うべく、巧みに使ったというあたりは共通するようで、その具体的な形はこれまたなかなか史料では再現しにくいということになりそうです。

小島道裕さんのまとめがわかりやすいかもしれません。「信長とは何か」(講談社、2006年)にこんなくだりがありました。
「単に兵器としての鉄砲の威力というよりも、鉄砲を活用し、また全軍が周到な作戦と準備の中で組織的に動いた信長・家康の作戦勝ち、という意味の方が大きいと言うべきだろう。兵農が未分離で、豪族が率いる軍隊の連合という側面が強い武田軍との体質の差が出たというべきかもしれない」

「決戦! 設楽原」(講談社、2018年)。時代小説集です。「したらがはら」と読みます。長篠の戦いは、前半戦が長篠城の攻防戦でその城の名前から「長篠の戦い」「長篠合戦」と呼ばれてきました。武田軍と織田・徳川連合軍が正面からぶつかった場所は城から西に3キロほど離れた丘陵地で設楽原という地名があり、それをとって「長篠・設楽原の戦い」などと呼ぶのが適当という意見もあるようです。

7人の作家が武田勝頼、家康の家臣・酒井忠次、信長軍の佐々成政ら、異なる主人公で戦いのいろいろな側面を描きます。この「決戦!」はシリーズ化されていて、川中島、桶狭間、本能寺、関ケ原などが同じスタイルで発刊されています。いろいろなタイプの作品が一度に読めるので、お気に入りの作家に出会えるかもしれませんよ。