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BLOG校長ブログ

2023.06.16

「土偶」ーーあなたは何者? その2

縄文時代の「土偶」をめぐって、『土偶を読む」という刺激的な著作とそれへのこれまた強烈といっていい反論『土偶を読むを読む』が出たわけです。学問的に論争があるのは当然のことだし、むしろあるべきでしょうが、一冊の単行本に対して名指して反論する本が出るというのは結構珍しいかもしれません。

もちろん土偶に関する「定説」といってもどこかの機関・組織が認定するわけではありませんし、細かいところは研究者での見解が異なるのが普通でしょう。あくまでも「こんな考え方が主流」といったところです。

その例としてこのあたりでしょうか。改めて、国立歴史民俗博物館教授、藤尾慎一郎さんの「縄文論争」(講談社選書メチエ、2002年)から。わかりやすくまとめられていると思います。

藤井さんはまず「土偶は、今では使われておらず、また、使われなくなってから二〇〇〇年余りもたっているため、何に使われていたのかがわからないものの一つである」と書きます。あたり前のことですが、ここが土偶を考える原点ですよね。

「明治以来、土偶に関する数多くの説が提出されてきた。根拠はバラバラであるが、それらはおよそ二つの機能に分けることができる。一つは玩弄具(もてあそぶ、なぶりものにする)説、もう一つが宗教関連の道具説だが、出土する遺跡や土偶時代の考古学的考察にもとづいた研究が始まる一九六〇年代以降は、後者(宗教関連の道具説)が主流になっている」とまとめ、「主なものに神像、女神像、精霊、護符、呪物説などがある」と付け加えています。

そして土偶の出土状況と土偶の状態を検討し、「土偶は、ある時期から一定期間、住居内の決まった空間に大切に保管されているが、マツリの時がくると持ち出され、使用される。マツリの途中から終了後に、手・脚・乳房などがもぎ取られ、マツリに参加した複数のムラや、一つのムラの内部で分配される」と具体的にかなり踏み込んでいます。

一方で、何のマツリか明確な答えはない、土偶が女性なのかどうかも決着がついていないとし、土偶の機能や用途論でなく、土偶が現れるときの、消える時の社会状況から土偶の機能に迫りたい、と続けます。

藤井さんは、土偶が作られた縄文時代の後の弥生時代になって土偶が作られなくなることをあげ、稲作が中心となる弥生時代はコメが豊かに実ることが一番の願いになる。縄文時代の土偶に託された願いとは異なるので、弥生時代・農耕社会にとって土偶は不要になった、とします。逆の言い方をすると、弥生時代には作られなくなった土偶は弥生時代とは異なった人々が必要とした道具だった、ということになります。そこから縄文時代の人々が土偶に何を託して作ったのかが推測できるという論法ですね。

藤井さんの意見は、日本史辞典にそった説ではありますが、注意したいのは以下の点でしょう。

「土偶祭祀(土偶を用いたマツリ)が消滅してすでに二〇〇〇年余、私たちはその意味を完全に忘れてしまった。その内容と目的を再び体感することは、もはや不可能に近いと考えている。土偶一つとってみても縄文人と私たちがかなり心性的に異なっていることがわかる」とも書きます。

安易に現代の私たちの心、気持ちで縄文時代の人たちの心、気持ちを理解しようということへの警告のようにも読めます。

エース 遮光器土偶

「土偶」その1でも取り上げた特別展「縄文--1万年の美の鼓動」展は「「縄文の美」というコンセプトなので、土偶だけでなく土器も多数出展されました(土器のほうが多いでしょう)。

土偶については「縄文時代の祈りの美、祈りの形が土偶です。土偶は人形(ひと・がた)の土製品で、縄文時代の始まりとともに登場します。乳房が表現されるため女性像であることは明らかです」と書かれています。まずます「定説」ですね、展覧会ですし。

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「亀ヶ岡」出土の遮光器土器は、最寄りのJR木造駅にも鎮座しています(JR東日本のホームページより)

「遮光器土偶」については「縄文時代の土偶といえば誰もがまず思い浮かべる土偶」としています。藤井さんの著書の表紙も遮光器土偶ですね。何体かあるようですが、青森県つがる市木造の「亀ヶ岡」出土品については「赤い彩色が冠状の装飾などに一部残ることから、本来は全面が赤く塗られていたと考えられる」との説明も加えられています。これが全身赤色だったとすると、結構な迫力ですねえ