2023.06.17
土偶が作られた縄文時代は日本ならではの時代区分であり、土偶の展覧会に多くの見学者を集めたことからも近年、縄文ブーム的なものが続いているともいわれます。また意地悪くいってしまえば、文字のない時代=考古学の世界は、専門家でなくても自由にあれこれ考えられるという「楽しみ」があるとも言えるでしょう。ましてや縄文時代に生きた人が「何を考えていたか」など簡単にわかりようがありません。だから発掘のニュースなどの常套句「ロマン」があるわけですね。
「縄文聖地巡礼」(坂本龍一・中沢新一、木楽舎、2010年)。
「縄文聖地」というネーミングも「おやっ」ですが、著者に注目です。先ごろ亡くなった世界的な音楽家、坂本龍一さんと宗教学者の中沢新一さんが縄文の代表的遺跡、三内丸山遺跡(青森県)から諏訪(長野県)、若狭・敦賀(福井県)、山口、鹿児島などを旅しながら対談を重ねてその内容をまとめています。
それぞれの分野ですばらしい業績をあげているお二人で、「ロマン」のレベルでとりあげるのは失礼ではあるのですが、やはり「縄文」へのかなりの思い入れが感じられます。
中沢さんは「縄文」について「厳密に考古学的な意味とは別に、ひじょうに多様な意味を包摂する言葉になっている」としたうえで、「縄文時代の人々がつくった石器や土器、村落、神話的思考をたどっていくと、いまの世界をつくっているのとはちがう原理によって動く人間の世界というものを、リアルに見ることができます」と語ります。
さらに「私たちがグローバル化する資本主義や、それを支えている国家というものの向こうへ出ようとするとき、最高の通路になってくれるのが、この縄文なのではないでしょうか」と続けます。
もちろん歴史に学ぶということは現在の問題意識があってのことであり、未来を考えることでもあるので、その点からすると中沢さんの問題意識、姿勢、向き合い方は当然といえばその通りなのでしょうが、縄文に理想の世界を見出そうとしているようにも感じられます。
坂本さんは、約1万年前にはじまった農耕の発明によって人間が環境を改変しはじめた、それが現代まで続いている、権力が生まれ、国家を作り出し、軍事力も伸ばし、核までできてしまった、この1万年のやり方を見直して、方向転換したい、と語ります。「縄文」は坂本さんがいうところの「1万年の前の時代」です。そういう視点での縄文への関心、ということのようです。
坂本さんの音楽の話もいろいろ出てきますが、何しろ博識のお二人のやりとりなので、話があちこちに飛んでいく印象はぬぐえませんが、「縄文」から何かを見出そうとする姿勢は一貫しています。
三内丸山遺跡を紹介する際にまず言及されるのがこの建物でしょう。
遺跡の公式ホームページによると「大型掘立柱建物跡」と堅苦しく書かれていますが、「縄文タワー」などとも呼ばれています。説明では「地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡です。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、(中略)6本柱で長方形の大型高床建物と考えられます」とあります。
あれれ、一番知りたい「高さ」や「役割」が書いてありませんね。
「古代史のテクノロジー」(長野正孝、PHP新書、2023年)でも「遺跡を管理している三内丸山遺跡センターは目的も高さも示していない」と注意喚起しています。発掘であきらかになった穴の直径や間隔などだけを示し、高さはもともとの柱が残っていないので不明、柱が立ち並んでいたことはわかるがどのような構造物(建物)だったのかももちろんわからない、ましてやその用途、役割などがわかるはずがない、という研究者としての姿勢であり、筆者の長野さんも「考古学上、大変正しい判断」と評価します。
とはいえ、やはり知りたいですよね。
そこで工学博士の長野さんは「(ゼネコンの)大林組が柱の先端部の土がどの程度荷重がかかっているか、土の圧密の程度で計算し15メートルと想定している。ほぼ間違いないと思われる」と教えてくれます。そのうえで、縄文人の建て方を考察します。ざっくり言ってしまえば、足場を組んで柱を一本ずつ立てていくというものなのですが、技術上の大きな問題点は作業する人間の数と柱を結わく植物繊維のロープの強度、などと自説に対して謙虚です。
同書では縄文の後の時代についても、奈良盆地に大きな湖があり大阪湾と運河で結ばれていたことなどを取り上げています。「歴史の素人が歴史の面白いところだけを切り取らせていただいた」とご本人は謙遜しますが、なかなかどうして、新鮮な発見、驚きがつまった、失礼ながら期待以上の内容でした。