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BLOG校長ブログ

2023.06.19

土偶から縄文時代も考える<その2>戦いはあったのか

縄文ブーム、縄文への「あこがれ」的な感性を後押しするものの一つに、縄文以降の弥生時代、古墳時代に比べて縄文時代は「戦い」がない平和な時代だったといった見方があると思います。その点はどうなのでしょうか。

「戦争の考古学的研究」を自身の主要な研究テーマにあげている松木武彦さんの著作から考えます。松木さんは認知考古学を専門とする国立歴史民俗博物館教授です。

まず松木さんの著作、日本の歴史のシリーズ本「列島創世記」(小学館、2007年)に認知考古学の説明があります。
「ヒトの心の普遍的特質の理解をもとにヒトの行動を説明しようとする心の科学(認知科学)が生み出され」「考古学の分野でも、人工物や行動や社会の本質を心の科学によってみきわめ、その変化のメカニズムを分析する認知考古学の発展がめざましい」とまとめられています。

もう一冊、タイトルはずばり「人はなぜ戦うのか」(講談社選書メチエ、2001年)
松木さんは「人が攻撃行動にいたるまでには、きわめて複雑で多様な意思決定の過程がある」との前提で、個人の攻撃本能と戦争は別もの、戦争は個人の行為ではなく、「社会的な集団がひとつの意思と目的をもっておこなうもの」と定義し、出土品から集団間での戦いがあったかどうかを認定する佐原真さんの提案を紹介しています。

「戦争・集団の戦い」はあったのか

その佐原さん自身の著作から引きましょう。佐原さんは日本を代表する考古学者で国立歴史民俗博物館館長などを務め2002年に亡くなられています。

三内丸山遺跡から出土した土器(「世界遺産 北海道・北東北の縄文遺跡群」のホームページより)

「世界史のなかの縄文」(佐原真・小林達雄、新書館、2001年)は、やはり考古学者として著名な小林さんと佐原さんの対談本で、縄文時代を考える際に必ず触れられるテーマでもある「縄文の人たちは定住していたのか」「農耕はあったのか」「縄文は平等社会だったのか」などについて激論を交わしています。戦争・集団での戦いについても意見が微妙に異なります。

佐原さんは「こういうものがあれば戦争と認めていいと言っている」として6項目をあげます。
①濠(ほり)や壁で村を守る
②武器(最初は狩の道具を凶器に転用するが、やがては人を殺傷する目的で作り使う道具が発達する)
③武器の副葬(死者に副えて武器を葬る)
④殺傷人骨(武器が骨に刺さった人骨)
⑤武器型祭器(祭りや儀式に武器の形をした道具を使う)
⑥戦士・戦闘場面の造形(絵や彫刻などに武器を持つ戦士や戦闘場面などが表される)

佐原さんは、このような証拠が現れるのは、世界のどの地域でも農耕社会が成立してから、つまり、弥生時代で、日本列島で戦争が始まるのは弥生時代からとします。これに対して小林さんは「縄文は戦争はあったけど弥生ほど戦争が重要なファクターになってはないと思う」と縄文に戦争があったことは否定しません。

松木さんはどうでしょうか。

道具や利器で傷つけられた人骨の例も縄文社会でも知られているので、個人的な攻撃はあっただろうが、「考古資料から判断する限り、縄文社会に戦争は行われなかった」としています。
戦争が農耕社会と密接に結びついていることには異論は少ないことから、縄文人が大陸から伝わってきただろう農耕(稲作)を取り入れようとしなかったこと、そういった縄文人の心のありようが戦争の導入をもはばむ結果につながったのではという見方もしています。

そして「一部の文化人類学者や哲学者が、縄文は日本の「基層文化」だ、などと説いたことがある。だが、複雑な脳の現象である文化というものに、科学的な意味での基層や表層があるということそのものが、そもそも疑問だ」と言います。

さらに「縄文が日本の「基層文化」だと説く人びとから共通してうかがえるのは、そう主張することによって、縄文の文化を自分たちに近いもの、自分たちにつながるものとしてとらえようとする一種の意図めいた空気だ」と続け、「縄文の文化は、私たち現代日本人の文化とは、むしろ、かなり遠いように感じられる」と冷静です。縄文への「あこがれ」的な風潮に警鐘を鳴らしているかのようにも読めます。

松木武彦さんの研究業績などについてはこちらから
 (国立歴史民俗博物館の研究者紹介のページ)