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BLOG校長ブログ

2023.06.22

沖縄「慰霊の日」にあたって

6月23日は沖縄の「慰霊の日」です。第二次世界大戦で多くの犠牲者を出した地上戦・沖縄戦で日本軍の組織的戦闘が終結した時点として、沖縄県の条例でこの日が「慰霊の日」とされています。

本校では今年度2年生の修学旅行は希望選択する3コースの中に沖縄(本島・石垣島)が含まれています(残る2コースはカナダ、北海道です)。沖縄コース希望の生徒は事前学習で戦争被害などについて学びますが、沖縄コースの参加生徒にかぎらず、沖縄にとって、そして私たち一人ひとりが忘れてはならない日であるこの「慰霊の日」をきっかけに改めて戦争のこと、その影響を強く受け続けている沖縄のことを考えたい。

おもに琉球と呼ばれる時代の歴史、沖縄での戦いのこと、戦後アメリカ軍の統治下にあったこと、日本への復帰、いまだに数多く残る米軍基地・施設のことなど、たくさんの優れた研究書、体験談などの本があり、事前学習として手にとることもあるでしょう。個人ブログなので、自分の読書体験のなかから、少し異なった視点での著作を紹介します。

「琉球切手を旅する」(与那原恵、中央公論新社、2022年)

沖縄が第二次世界大戦後、米軍によって占領され、さらに日本が独立を取り戻した後の米軍施政下(統治下)の間、1948年7月から72年4月まで、普通切手、記念切手、航空切手など259種の琉球切手が発行されました。正直、これまで関心の外にありました。

筆者の与那原さんの、沖縄から東京に移り住んでいた両親のもとに、沖縄の親戚、知人から手紙が届きます。「私(筆者)の目を引いたのは、沖縄から届く封筒に貼られた美しい切手でした。父が、切手は国ごとに作られていると教えてくれた」

そうですよね。郵便事業は国ごとに行われるもので、その「料金」を示す切手はそれぞれの国の郵便事業ごとに用意される、きわめて当たり前のことですが、逆に、沖縄で独自の切手が発行されていた、つまり、沖縄は「外国」だったということを示してもいるわけです。

与那原さんは沖縄を訪れるたびに、琉球切手を買い求めるようになります。
「切手の図柄は戦争で失われた文化財や工芸品が多くあるが、そこに込められた思いはどんなものだったのか。大きなイベント開催のたびに記念切手が発行されるが、これも戦後沖縄社会史としてとらえれば、切手の意味がはっきりするかもしれない。琉球切手は戦後沖縄の証人ではないか、と思い始めた」と振り返ります。

そして、琉球切手をコレクションしている人に出会い、さらに、切手の図柄をデザインした美術家の足跡を追い、インタビューを重ねていきます。

/B円の表示が二重線で消され、その上にセント表示の数字が書き込まれています。あわただしく切り替えられ切手の発行が間に合わなかったのでしょう(那覇市歴史博物館デジタルミュージアムより)
/発行されなかった記念切手

1958年、それまで沖縄で使われていたB円という通貨がドルに切り替わります。切手はいうまでもなく、お金の代わりですから、切手それぞれに「金額」が入っています。通貨が切り替わるということは、その金額表示も当然かわるわけです。ドルが使われるようになるとドル、セントで表示された琉球切手が発行されます(写真上左

これなどは、切手を通して沖縄社会の大きな変化がわかる端的な例ですが、それ以外にも戦争で焼失した守礼門が復元された際に記念切手が発行されたことなどもその好例でしょうし、また、郵便事業の労働組合がストライキで記念切手発行阻止活動をしたこともあったそうです。

切手デザインにあしらわれた日の丸と星条旗をめぐって米軍の圧力があり、発行できなくなったことも指摘しています。沖縄の復帰運動を前に、沖縄の人たちの思いに米軍が神経質になっていたのだろうと筆者は推測します(写真上右)。切手一つから当時の沖縄の政治、社会情勢がうかがえるのです。

1972年、沖縄返還で沖縄県となると、琉球切手は使えなくなります。本土で使われている切手を使うことになるわけです。

切手を通しての沖縄戦後史でもあるのですが、随所に学ぶべき、忘れてはならない事柄があげられています。
戦後、戸籍を作り直さなければならなかったのですが、沖縄では家族関係を証明する書類が戦争で失われ、また当事者の記憶があいまいだった事例も多く、臨時戸籍の整備には時間がかかったこと。
人口が増えていくなかで米軍基地が次々と建設・拡大され、食料生産する農地が不足し、南米などへの海外移民事業が進められました。現地にも出かけた与那原さんは移民した人たちやその二世らに会い、こう書きます。

「ハワイや南米に移民した沖縄人には、郷里の沖縄からの便りを楽しみにしていた、そこには、琉球切手が貼ってあったわけです」
「そんな琉球切手は、こんなふうにつぶやいているのかもしれません。沖縄が米軍施政下だったころ、私たちは「言葉」を運んで、旅をしたのだよ、と」

与那原さんは「私が琉球切手をテーマにするのなら、米軍施政下の沖縄社会を描くべきだと思いいたりました。戦後沖縄の足跡と人物をタテ糸に、琉球切手の図柄を描いた美術家たちをヨコ糸にして、琉球・沖縄の織物のように物語を織り上あげてみたい」という思いで、“琉球切手の旅” を歩きました。

見事に織り上げてあると思います。昨年12月の発行ですが、今年読んだ本の中では、個人的にいまのところナンバーワンかと。

酸素ボンベの郵便ポスト

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琉球切手の写真を参照させていただいた那覇市歴史博物館のデジタルミュージアムには貴重な写真がたくさんあります。この写真もその一つ。「琉球切手を旅する」で教えてもらいました。博物館の写真の解説には「(酸素ボンベのポスト)戦後、無からスタートした沖縄の郵便業務。ポストにしても、米軍の酸素ボンベを利用していた。1962年頃には本来のポストが普及したものの、地方ではまだポスト不足の所も。/(1962年頃)」とあります。

那覇市歴史博物館の公式ホームページはこちらから