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BLOG校長ブログ

2023.06.24

沖縄と鉄道

沖縄にかかわる鉄道の話です。またぞろ「鉄ちゃん」が出てきたかと叱られそうですが、沖縄にかつて「チンチン電車(路面電車)」や「軽便鉄道」で蒸気機関車が走っていたということは案外、知られていないのではないでしょうか。
電車は戦前にバスに押されて廃止されたのですが、軽便鉄道は第二次世界大戦・太平洋戦争の沖縄での地上戦で壊滅的な打撃を受け、廃線となりました。ここでも沖縄戦・地上戦が沖縄の社会を大きく変えたのです。

そして2003年、モノレール「ゆいレール」が開業、鉄道が復活するのです。「えっ、モノレールって鉄道なの?」、はい「鉄ちゃん」が解説します。

まず2冊紹介します。共通する筆者、ゆたかはじめさんはペンネーム。東京高等裁判所長官を勤めた判事(裁判官)で定年退官後、沖縄に移住。子どものころから大の鉄道好きで、沖縄での鉄道の歴史を掘り起こして著書で紹介し、また、沖縄に鉄道を走らせようと著作や講演などを通じて提唱し続けました。
『沖縄に電車が走る日』は2000年12月発行、「ゆいレール」が走り出す直前です。『沖縄・九州 鉄道チャンプルー』は2008年発行、九州の鉄道に詳しい人との共著です。

路面電車が走り出したのは1914年(大正3年)、那覇と首里を結び、1917年に路線が延びて全長約7キロ、ところが路線バスが登場して電車はバスとの競争に負け1933年(昭和8年)に消えてしまいます。

一方の「軽便鉄道」は正式には「沖縄県鉄道」(沖縄県営鉄道)といい、「けいびん」「けーびん」と呼ばれて親しまれたといいます。軽い、便利という文字の通り、本土で国鉄が造り走らせる幹線鉄道とは異なる法律によって、地方で安価に造り開業できる鉄道として次々とできたのが「軽便鉄道」でした(法律名から正式には「けいべん」と読みます)。多くの路線は線路幅が国鉄のものより狭く、車両も一回りも二回りも小さなものがほとんどでした。

これを沖縄でも、ということで、路面電車と同じ1914年開業。那覇を中心に与那原線、嘉手納線、糸満線の3路線があり、蒸気機関車が客車や貨物を引き、のちにはガソリンカーも走ります。

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那覇駅停車中の軽便鉄道の祝賀列車。普段はもっと編成が短い(1934年)
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軽便鉄道、東風平(こちんだ)駅風景
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那覇市街を走る電車
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写真はいずれも「那覇市歴史博物館デジタルミュージアム」より

『図説 沖縄の鉄道<改訂版>』(加賀芳英、ボーダーインク、2007年)から引きます。
1944年(昭和19年)の空襲で県鉄道の那覇駅が焼失、このころは兵員輸送が中心となり、米軍の進攻が迫った1945年3月には運転休止となりました。戦後、あちこちでレールの残骸が見られ、横転した客車や錆びた機関車が放置されるがままだったようで、米軍の指示で鉄道復旧計画も立てられたものの道路整備が優先され、鉄道計画は消えてしまったようです。

「この鉄道は、沖縄の地上戦で完全に破壊され、悲しく消えていきました。私が昭和五十五年ころ那覇に赴任していたとき、いろいろな方からお話を聞き、線路の跡を訪ねたりして知ったのです」。ゆたかさんは『チャンプルー』にこう書いています。

共著者の桃坂さんはこう話します。

「沖縄県営鉄道は営業ができなくなって廃止されたわけではない、地上戦という、地獄のような戦火に破壊されて消えていったのですから、厳密にいうと廃線跡ではありません。鉄道も、悲しい戦争の犠牲者なんですね。軽便鉄道の遺跡は戦跡です」と。

そして「ゆいレール」

ゆたかさんは、沖縄、特に那覇市内などの慢性的な交通渋滞の解消のために、沖縄に公共交通機関として鉄道、路面電車を走らせるべきだと言います。そして2003年、沖縄戦が終わっておおよそ半世紀後に「鉄道(ゆいレール)」が復活するわけです。

その経緯について「ゆいレール」の公式ホームページから要約します。

「沖縄県では陸上交通のすべてを道路に依存し、約8割を自動車による移動手段に頼っている。自動車の保有台数は急激に伸び、道路整備が追い付かず、中南部都市圏では慢性的な交通渋滞が発生している。唯一の公共交通機関であるバスは慢性的な交通渋滞で定時運行が難しく利用客が年々減少傾向にある。その解決策として、新しい公共交通機関が必要」

ゆたかさんの問題意識はみな持っていたわけです。では、なぜ2本の鉄のレールによる鉄道でなく、モノレールだったのか(くどいようですがモノレールも鉄道です)。その点について、このホームページには明確な説明はありませんが、「道路整備と併せて、道路空間を有効利用できる都市モノレールの導入が必要」との書き方がヒントになりそうです。

モノレールは道路の上に造られるので、あわせて道路の整備(改良)もできる。やはり圧倒的に利用されている自動車の利便性も高める必要性があるのでしょう。鉄のレールによる鉄道を一から作るとなると用地が必要で、ばく大な費用が想定されます。踏切を作ったら道路事情はさらに悪くなる、かといって高架鉄道にしたらなお費用がかかる、などの理由があげられるのでしょう。

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「ゆいレール」路線図

写真とも「ゆいレール」(沖縄都市モノレール)の公式ホームページより

ともかくも、ゆいレールが開業しました。圧倒的な車社会に慣れている県民がモノレールをどのくらい利用するのかといった心配、また県民の多くが鉄道に乗った経験がないので切符の買い方がわからない、などといった失礼な話も都市伝説のように伝えられましたが、直近の財務分析をみると、コロナ禍による観光客激減があって赤字は解消できてはいないようですが、県民には定着しているのではないでしょうか。

「鉄道」という字面からすると、コンクリートの上を走る(あるいはぶらさがる)モノレールが鉄道に分類されるのには違和感があるのは理解しますが、鉄道建設について定める法律では、モノレールも鉄道の一つとされています。「懸垂(けんすい)式鉄道」と「跨座(こざ)式鉄道」の二つのタイプに分類されます。

/湘南モノレール(懸垂式)
/多摩都市モノレール(跨座式)

「懸垂式」は、車両の車体部分が軌道けたから垂れ下がっている(懸垂している)もので「湘南モノレール」「千葉都市モノレール」が代表例です。

「跨座式」は、軌道けたをまたぐ(跨座している)タイプのものをいい、写真を見てもすぐにわかるように「ゆいレール」はこちらです。本校のスクールバス路線の一つ上北台駅がある「多摩都市モノレール」もこの「跨座式」です。

余談として

ゆたかさんは『チャンプルー』でかつての特急「なは号」を復活させようと呼びかけます。この「なは」は沖縄の県庁所在地の「那覇」です。九州と関西を結んで走る特急でしたが2008年3月になくなりました。鉄道のない沖縄・那覇の「なは」、そもそも九州から海をへだてている沖縄に列車が走れるわけがないうえ、その沖縄がアメリカに統治されていた時代にこの特急は走り出しました。地元新聞が特急名を公募して選ばれたそうですが、ゆたかさんは「沖縄の本土復帰を願い、当時の国鉄が精一杯の思いを込めて走らせた。当時外国だった都市の名前を採用した。こんな例は、世界にもないんじゃないですか」と書いています。