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BLOG校長ブログ

2023.07.07

「自然」「もの」から歴史をみる その2

少し異なった視点から歴史を見る面白さ、「イワシ」「ニシン」という「海のもの」に続いて山のものというか空のもの? というか、「鷹」と「鶴」が主人公です。

「鷹将軍と鶴の味噌汁--江戸の鳥の美食学」(菅豊、講談社選書メチエ、2021年)

最近は「ジビエ」と呼ばれる、狩猟などで獲った野生の鳥獣肉が食べられるようになってきましたが、鳥肉というとカモが少し食べられてはいますが、もっぱら食用とされるのは鶏肉(ニワトリの肉)ですよね。

ところが、鶏肉一辺倒になったのはごく最近のことで、歴史をみると鳥食は縄文時代までさかのぼることができ、特に江戸時代はかなりの種類の野生の鳥が捕獲されて朝廷、将軍家、大名から庶民まで幅広い層の人たちが食べていたというのです。

鳥の種類によって「ランク」があり、売買される価格が異なるのはもちろん、その鳥を贈り物にするにあたっても、贈り先によってその「ランク」が重要視された、ランクを間違って贈ると失礼になる、というから驚きです。

さらに、この贈り物ですが、いわゆる「使い回し」も頻繁におこなわれていて、「鳥」はそこでも重宝されたとのこと。「使い回し」は「一度使った物を、(捨てずに)次のときにも利用すること」(三省堂国語辞典)ですが、ここでは、贈り物としていただいた物を消費せずに、別の人への贈り物として使うことを言っています。

つまり、贈ってもらった鳥肉を自分のところでは食べずに別の人への贈り物とすることです。このような「使い回し」は室町時代ごろからあたり前に行われていた習慣だということは以前、別の著作で読んで驚いたのですが、なにぶん「肉」です。使い回しているうちに腐ってしまわないか心配です。(それを言ったら、使い回ししなてくても獲ってからの輸送時間を考えると肉の保存は難問ですが、同書によると塩漬けも多用されたようです)

このように多くの人に愛された鳥料理ですが、「ちょっと待って」と疑問を持つ人がいるはずです。おなじみの「生類憐みの令」です。

五代将軍徳川綱吉が「生類」つまり生き物を大事にしろと掲げた法令です。建前が先行してさまざまな混乱を招いたとして悪法の見本のように語られてきましたが、近年では、戦国時代の「武」、つまり暴力を肯定する風潮から「文」の政治に切り換えたいという幕府の大きな政策転換の中にこの法令を位置付けるという見方もでてきています。

そのような評価はおいておくとしても、野鳥を獲るなどというのは真っ先に法令違反として処罰の対象になるであろうことは容易に想像がつきます。それでも、監視の目をかいくぐって野鳥を獲る人が絶えなかったようです。

江戸時代、その野鳥の中でも最上位にランクされたのが「ツル」、中世では「ハクチョウ」が最高位の鳥とされていたのがツルにとってかわるとのことで、その理由はさだかではないようですが、本のタイトルはここからきているわけです。

ではタイトルの鷹、タカは何なのか

生類憐みの令とは別に幕府は何度も野鳥捕獲の禁止令を出したようです。その理由は、タカの餌となる野鳥が減るから、つまりヒトがタカのエサを食べてしまうからです。
訓練したタカを放って野鳥を獲る「鷹狩」は、信長、秀吉の時代から天下人、権力者の権威・権力の象徴として行われていました。趣味の域を超えていたわけですね。NHK大河ドラマ「どうする家康」でも、家康が信長の鷹狩に誘われるシーンがありました。

/静岡市の駿府城址(駿府城公園)にある徳川家康像。左手に鷹を持つ、鷹狩の様子をデザインしています
/柏市のホームページから。「鴨猟は手賀沼の冬の風物詩であった」との説明で1942年(昭和17年)の写真が掲載されています

徳川幕府もそんな気風を受け継ぎ、代々の将軍は鷹狩に精を出します。その「会場」となる土地「鷹場」には鷹(タカ)の獲物になる野鳥がいなくてはならないわけで、これが庶民の野鳥獲りの禁止につながるわけです。

幕末の1863年(文久3年)、十四代将軍家茂の鷹狩を最後に将軍による鷹狩が行われなくなり、大政奉還の年(1867年)には鷹場が廃止されます。「将軍の鷹狩を頂点とする江戸の鳥食文化も、武家社会の解体と足並みをそろえるように衰退していった」。

この著作では江戸に鳥、特にカモを供給する場であった千葉・手賀沼での捕獲方法(猟の技術)、どのくらい値段で売られていたのか、それを担ったいた手賀沼周辺の人たちの生活などがていねいに描写されています。明治以降、近代的な猟法ともいえる猟銃による捕獲が盛んになり、また沼が埋め立てられて水田になっていくにつれてカモの量が減り、カモ猟が終焉を迎えるまでも説明されています。