2023.07.08
「イワシ」「ニシン」という「海のもの」、「鷹」「鶴」という山のもの、空のものに続いて「土、地面」からのものでみる歴史の本です。
島根県の「石見銀山遺跡」とその周辺の街並みや港などの「文化的景観」が世界遺産に登録されて15周年を迎えたことを記念して国際日本文化研究センターが開いた共同研究会(シンポジウム)の内容をもとにした書籍です。
日本の貿易の歴史の中で「銀」が果たした役割は非常に大きく、世界史を変えたと言ってもいいくらいであることはこれまで関連する本で学んではいましたが、このブログでもたびたび紹介している同センター教授の磯田道史さんの基調講演というか概説が大変よくまとまっていて、いい復習になりました。
日本では平安時代中ごろまで自前の貨幣・銅銭を造っていましたが、貨幣を使う経済が活発になるにつれてその量が間に合わなくなり、中国から貨幣・銅銭を輸入するようになります。いわば日本だけでなく「東アジアの国々は、長らく、(中国の)宋代にできたシステムや貨幣の土台の上に成立していた事実がよくわかります」と磯田さん。
その中国が宋から元、さらに明と王朝が変わるにつれ、次第に銀貨が使われるようになるのですが、中国では銀があまり産出されない、そんなタイミングで石見銀山が発見されます。
16世紀から17世紀にかけての世界の銀の動きをみると、中国が輸入した銀の約7割は日本からのもので、大陸に近いといった条件を考慮すると、石見銀山産出の銀がもっとも多かっただろうと、磯田さんは推測します。「日本の銀、なかでも石見銀山が産出した銀が、中国の銀需要と銀本位制化を支えたことはまちがいありません」
同じ時期にヨーロッパでも銀がもっぱら使われます。こちらはスペインが支配するポトシ銀山(現在のボリビアにあった)産出の銀が使われました。おおきなくくりで言うと、たった二つの銀山がこの時期の世界経済の発展を支えた、ということですね。
石見銀山の銀など貴金属が日本の貴重な輸出品となり、日本も豊かになっていきます。「日本経済を石見銀山が引っ張った、石見銀山が日本の経済大国化の発火点となった。そう言えるわけです」と磯田さんは書いています。なるほど。
このような石見銀山の「価値」を権力者が見逃すわけがなく、戦国時代の大名では大内氏、尼子氏、毛利氏が順に支配します。鉱山からの収入が戦国大名の戦いの軍資金となるわけです(鉄炮などの武器を揃えるのにもお金が必要です)。
その後、いわば毛利氏の「利権」でもあった石見銀山に目をつけたのが豊臣秀吉で、毛利氏との力関係から銀山の収入の一部が秀吉のものとなります。さらに関ケ原の戦いで敗れた形となった毛利氏から石見銀山をとりあげたのが、関ケ原の勝者の徳川家康でした。
「銀」のように土中から得られる資源で日本の輸出品として大きな役割を果たしたものが他にもあることを教えてもらったのが『アジアのなかの戦国大名--西国の群雄と経営戦略』(鹿毛敏夫、吉川弘文館、2015年)です。
おもに九州地方の戦国大名が大陸(中国)や東南アジアに近いという利点を生かして積極的に貿易に関わり、その利益を大名としての領国経営に充てていたという、その話がまず、米作り・年貢という一般的な戦国大名の印象と異なっていて興味深いのですが、その貿易、輸出品の中で「硫黄」が大きなウエイトを占めていたとして多くのページを割いています。
硫黄は、金銀銅などのように坑道を掘って採鉱するものではなく、火山の噴火口などで採取できるので、高度な技術や施設は必要ない。鉄砲など火器が使われるにつれて火薬の原料となる硫黄の需要は国内外で高まります。そう、日本列島は火山が多いですよね、その硫黄が盛んに輸出されるわけです。
筆者の鹿毛さんは、金鉱山に人々が集まり金産業が栄えた「ゴールドラッシュ」、同じく「シルバーラッシュ」になぞらえて、「硫黄鉱山の産地に人々が集い関連産業が栄えたこの状況を「サルファー(硫黄)ラッシュ」と呼ぶことができるだろう」と書いています。
南米のポトシ銀山産出の銀が大量にヨーロッパに運ばれ、その結果、ヨーロッパの経済の発展、例えば産業革命を通じての資本主義の広がりなどにつながっていくことが説明されています。