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BLOG校長ブログ

2023.08.07

「甲子園の土」と沖縄

開幕した高校野球、夏の甲子園大会で、選手たちが試合後に甲子園球場のグラウンドの土を集めて持ち帰ることが4年ぶりに認められ、テレビ中継や新聞でその様子が報じられています。毎年、おなじみの光景だったのですが、新型コロナウイルスの感染拡大以降、チーム入れ替え時の接触を避け、また、入れ替を速やかに行うために控えるよう呼びかけられていたとのこと。

この甲子園の土については、1958年(昭和33年)夏の大会に沖縄勢として初めて出場した首里高校をめぐる話がよく知られています。とはいいつつ、今の高校生は知らないかもしれません。沖縄は今秋の本校修学旅行先の一つ、事前学習にもなりそうなのであえて取り上げます。

インターネットなどで検索すると、この話はすぐに見つけられると思いますが、今回の引用は以下によります。

『不滅の高校野球 下 栄光と感激のあと』(松尾俊治、ベースボールマガジン社、1984年)

ちょっと古い本ですが、著者は毎日新聞の記者(大先輩です)、発行年からして「教材」「資料」として購入したのだと思います。

1958年の夏の大会は40回記念ということで、アメリカの統治下にあった沖縄の代表として首里高校が出場することになりました。初戦で敗れ試合後、グラウンドの土を袋に入れ持ち帰ろうとしたのですが、沖縄・那覇港でその土は検疫官によって没収され、海に捨てられてしまいます。土は植物検疫法に触れるという理由だったそうです。

今でも、多くの国で海外旅行で持ち込んではいけないものがありますよね。生物多様性の維持、外来種の入り込みを防ぐために動植物の輸入・持ち込みが禁じられます。この「土」もその例、沖縄は「外国」だったわけです。

この話を聞いた日本航空のスチュワーデスさんが、土がだめなら検疫に触れない石をと、甲子園の外野で拾い集めた数十個の小石を甲子園をかたどった形で箱に詰め、スチュワーデスのリレーで首里高校に届けられました。この石は、甲子園出場を記念して校内に設置された「友愛の碑」に埋め込まれています。



1958年第40回大会に出場した首里高校の選手たち。写真は「那覇市歴史博物館デジタルミュージアム」より。

この首里高校の選手たちと甲子園の土については、沖縄の高校の先生が著した「高等学校 琉球・沖縄史」(新城俊昭、1998年第3刷)でも取り上げられています。同書では選手たちが砂を集めている写真も掲載されていますが、『那覇百年のあゆみ』(那覇市企画部市史編集室・編、1980年)によっているようです。

この1958年が沖縄県勢の初出場、甲子園初勝利は1963年(昭和38年)の夏の大会、同じ首里高校。初優勝は沖縄の本土復帰後の1999年(平成11年)春のセンバツ大会での沖縄尚学高です。

内閣府のホームページ「沖縄県民を熱狂させる野球」に、沖縄の高校野球が詳しく紹介されています。こちら

その冒頭、こんなくだりがあります。

「沖縄とスポーツ」を語る上で、野球の存在は欠かせません。特に高校野球に対する熱は極めて高く、沖縄のチームが甲子園で試合をする時は、多くの県民が自宅や職場、ショッピングモールなどでテレビ中継に釘付けになります。その様子は、試合の最中に「道路から車がいなくなる」と言われるほどです。高校野球が一スポーツにとどまらず、一つの「文化」として地域に根付いているといっても過言ではないかもしれません。

そんな大げさな、と思われるかもしれませんが、10年以上前の私的な経験です。

沖縄で児童生徒向けのニュース解説の催しを地元新聞社が主催。講師役のジャーナリストのアテンドをしました。その新聞社の人が、会場(ホール)が野球場と同一敷地内にあり、高校野球県大会の最終盤に差しかかっていた時期だったため、野球観戦による付近の交通渋滞が心配、そもそもみんな野球観たくてイベントに来ないのではないかと真顔で心配していたことが忘れられません。幸い、イベントは満席になりましたが。