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BLOG校長ブログ

2023.08.04

「オフサイド」の歴史

女子サッカーのワールドカップ(W杯)、日本代表「なでしこジャパン」は1次リーグを全勝で突破、5日の決勝トーナメント1回戦でノルウェーと対戦します。代表チームの専属シェフのことにふれましたが(7月31日)、やはりサッカーからみながら少し変わった切り口で。サッカーやラグビーを観戦する際に「わかりにくい」といわれる「オフサイド」のルールがなぜあるのかを探究した名著があります。

『増補 オフサイドはなぜ反則か』(中村敏雄、平凡社ライブラリー、2001年、原著は1985年)

そのものずばりのタイトルではありますが。

さてそもそもオフサイドです。まずはサッカーに絞りますが、同書によりざっくりと「プレイヤーがボールより前方でプレーすること」を反則とする、すこし詳しく「ゴール・キーパー以外の相手チームの誰よりも相手ゴール・ラインの近くにいて、そこで攻撃側プレイヤーが後方からパスされたボールを受け取るような場合、このプレイヤーはオフサイドであるという」

インターネットなどでサッカーのルール解説などを検索してみると、攻撃側の選手による「待ち伏せ」や「抜け駆け」を防ぐため、などと説明されています。その目的として「もしオフサイドがなければ、攻撃選手はゴール前に張り付いて、味方からのパスを待てば得点できるゲームになってしまいます」とあり、それはそうですね。「試合をより面白くするために設けられたルール」ともありましたが、ちょっとわかりにくいですよね。

筆者の中村さんは「オフサイドがなぜ反則なのか、誰が、どのような理由で決めたのかと問われると答えは容易ではない」という問題意識をもって、「オフサイド」の起源を探ります。

まず考えていく前提を中村さんが示します。

・オフサイドは、二つのチームのプレイヤーが互いに入り混じって行うボール・ゲーム、すなわちサッカー、ラグビー、ホッケー、アイスホッケーなどに取り入れられている反則の一つ
・同じボール・ゲームでも、ネットをはさんで行うテニス、卓球、バレーボール、あるいは交互に交代する野球、ソフトボール(略)などにはないルール(略)

言われてみればあたり前ですが

・ところが、二つのチームのプレイヤーが互いに入り混じるボール・ゲームでありながら、バスケットボールにはオフサイド・ルールはない
・同じように二つのリームのプレイヤーが入り混じるボール・ゲームでありながら、イギリス生まれのものとアメリカ生まれのものとの間にど うしてこのような相違が生じるのか
・イギリス人がなぜアメリカン・フットボール、バスケットボール、野球、ラクロスなどのアメリカ生まれのスポーツに親しまず、アメリカ人がなぜラグビー、サッカー、ホッケー、クリケットなどのイギリス生まれのスポーツになじまないのかという問題

と続きます。

おーっ、この先を読まずにいられない問いかけですよね、そして、このあたりが、なぜオフサイドが反則なのかという答えの伏線になっています。上質な推理小説を読むようです。
(ここでアメリカ人がサッカーになじまないとありますが、女子W杯でもアメリカは優勝候補ですし、本著の発行のころの受け止め方ですね)

さて、オフサイド・ルールがボール・ゲームの歴史のなかに初めて文書に残る形で登場するのは1845年、イギリスのラグビーという学校で、生徒がルールを成文化した時のことだそうです。ラグビー校は競技としてのラグビー発祥の地とされています。しかし、ここの至るまでに当然、オフサイドを「いけないもの」とする歴史があったと推測はされるものの、「確実なことはわからない」、なあーんだ、ではなく、確実ではないからこそ探求する醍醐味があるわけですね。

イギリスにおいてフットボールは村祭り、村をあげてのイベントがそもそもの起こりということは結構知られています。それが次第に学校の校庭で行うスポーツになってくる。村祭りのイベントだったので、多くの人たちが密集を作りボールを奪い合う、乱暴な面も相当あったでしょう。しかし学校スポーツとなるとルールを決めないと試合が成り立たなくなってくるわけです。

それとオフサイドがどう関係するのか、いよいよ核心が近づいてくるのですが、正直、ここで中村さんの「解答=考え方」をあっさり紹介してしまうのはどうかと思うのです。意地悪いですかね。

ただ、冒頭のネット検索にある「待ち伏せ」「抜け駆け」はある1面は突いているようです。「卑怯」じゃないか、といった心持ですね。学校スポーツとして発達した競技、いわゆるパブリックスクールと呼ばれるイギリスの上流階級、紳士を育てる学校なので、何よりも「卑怯」は嫌われる、そんな仮説が思い浮かびますよね。

この本には2002年に読了の書き込みがありました。久しぶりに読み返して、仮説は半分正解でした。以下の部分に赤線が引いてありました。

(村祭りイベントでの特徴的な形態である)密集から<離れていく>行為や<離れている>行為が「よくない」行為とされ、やがて禁止されるようになった理由としては、それによって「突進や密集」の少ないフットボールが行われるようになり、フットボールの神髄でもあり、また楽しみや面白さの中心でもある「男らしさ」を示すプレーが見られなくなるということ

(村祭りイベントは1点取ると終わりとなったので)フットボールを1点先取というルールで行われる競技として受け継いでいく以上、この1点が容易に得られないようなルールや競技構造のものにしてしておく必要があった

なんと、わざわざ多く点をとれないようにするためにオフサイドルールが生まれ、引き継がれてきた、というのです。

この本でのこの結論「えーっ」と首をひねる人もいると思います。中村さんの見方といってしまえばそれまでかもしれませんが、「伏線」と書いた部分、「イギリス人がなぜアメリカン・フットボール、バスケットボール、野球、ラクロスなどのアメリカ生まれのスポーツに親しまず、アメリカ人がなぜラグビー、サッカー、ホッケー、クリケットなどのイギリス生まれのスポーツになじまないのかという問題」につながっていませんか。ここでいうアメリカ生まれのスポーツ、どんどん得点が入りますよね、対してイギリス生まれはどうでしょう、と。

「もともとあまり点が入らないようにしてある」のだから、なでしこジャパンがなかなか点を取れなくてもイライラしないようにしましょう。でもどんどん得点をあげて勝ち進んでもらいたいものです。

この本は、オフサイドの「歴史」をさぐるという内容ですが、イギリス文化史、あるいは教育史としても読みごたえがあるものです。またスポーツと歴史、文化を考えるうえで示唆に富んだ、以下のように考えさせられる問題提起もしています。

フットボールにはいくつもの種類があることを紹介しつつ、「人間はボールを足で扱ういろいろな遊びや競技を多様に行っていたことは明らか」それは「人類が同じような身体的条件を持ち、同じような感情的反応をするからであろう」が、「イギリス生まれのフットボールだけが世界の人びとによって盛んにおこなわれるようにな」ったことは「単純に、フットボールが誰にでも親しまれるような面白さや楽しさをもっていたからであるというように考え」るべきではなく、イギリスが資本主義国として巨大な支配地域と富を築きあげ、政治・経済の優位性とそれを支える科学、技術、学問、思想、制度等々が、彼らの創出した文化財の文化的価値を高めていたということに注目する必要がある、と指摘しています。

大変重要な視点だと思います。

とはいえ、スポーツルールについてあれこれ考えることが、文化の多様性を考えることにつながることは実にいいことではないでしょうか。中村さんはスポーツルールの不思議をほかにもいくつかあげています。
・ラグビーのボールはなぜ楕円球か
・アメリカン・フットボールのタッチ・ダウンはなぜ6点なのか
・バレーボールはなぜ3回で相手コートにボールを返さなければならないのか
・陸上競技の三段跳びはなぜ三段跳びなのか、四段跳びや五段跳びではなぜいけないのか

笑ってしまいそうですが、確かに、という疑問ですよね。