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BLOG校長ブログ

2023.08.26

「環伊勢湾戦争」 その②

安部龍太郎さんの『家康はなぜ乱世の覇者となれたのか』(NHK出版、2022年)では、「小牧長久手の戦い」を「環伊勢湾戦争」と呼ぶべきだという研究が紹介されているわけですが、その理由の一つとして、序盤戦ともいえる長久手での戦いにとどまらない衝突が各地であったことがあげられています。

例えば
・紀州(現在の和歌山)の反豊臣秀吉勢力の大阪方面への進出・武力衝突
・関東で家康と同盟した北条氏が秀吉方の佐竹氏勢力と衝突
・尾張(現在の愛知県)での「蟹江城合戦」
などです。

そして「最終的には(織田)信雄の本国である伊勢を脅かすという秀吉の策が功を奏し、(略)信雄は家康に相談することもなく秀吉と和睦してしまいます。(略)家康は、長久手での局地戦では赫奕(かくえき)たる勝利を収めましたが、秀吉との外交戦に敗れたと言えるかもしれません」とまとめています。

HNKの大河ドラマ「どうする家康」では局地戦で勝ったところまでが放送済み、手放しで喜んでいるわけではない家康と重臣の石川数正の姿で思わせぶりに放送が終わっているので、「その後」の秀吉の「外交戦」「したたかさ」は27日の放送で描かれるのでしょう。

さて、その①で紹介した『家康伝説の嘘』(渡邊大門・編、柏書房、2015年)でも、「小牧長久手の戦い」の全体像については以下のように書かれています。

「家康・信雄は、兵を挙げた動機とされる秀吉の影響力を十分に削りとることや、信雄が天下人になることを達成できていない。したがって、四月九日の会戦では徳川・信雄の勝利であったが、戦役としては秀吉が勝利したと考えるのが妥当なのかもしれない」

では、これまで家康側が勝ったとされてきたのはなぜなのか。

「(江戸時代になってから)関ケ原の戦いに参加できなかった譜代大名や旗本たちが、「天下分け目の戦い」で活躍できなかったことを面白く思わなかったため、彼らの先祖らが活躍した小牧・長久手の戦いで家康が勝利したことが、秀吉に家康を特別な存在と認めさせ、それがのちに将軍の地位に繋がったとする話を創出・喧伝したためではないかと言われている」という研究を紹介しています。

小牧長久手の戦いについて、もう少し

このブログでも何回も取り上げている磯田道史さんの『徳川家康弱者の戦略』(文春新書、2023年)

「兵力的には秀吉側の優位は歴然」の状況下で家康側は局地戦に持ち込んだ、「快勝ではあったが、楽勝ではなかった」。その後「(秀吉側は)局地戦には敗れたものの、秀吉の圧倒的な優勢は変わりません。その圧迫に耐えられず、(略)織田信雄は秀吉に和議を願いでます。すでに秀吉に占領されていた伊賀と南伊勢を失い、人質も差し出します」、「両者(家康と秀吉)の緊張関係はまだ続きます」
(この磯田さんの著作についても6月10日のこのブログ「長篠の戦い その3」でも紹介しています)

同じく再出の『戦国15大合戦の真相--武将たちはどう戦ったか』(鈴木眞哉、平凡社新書、2003年)。通説に遠慮なく異論をはさむ鈴木さんの著作をつい引いてしまいたくなります。「小牧・長久手の戦い」についても変わりありません。

「長久手の戦いは、家康一代の戦歴のなかでも、珍しいほどの快勝といえる。一般には、家康は大変な戦さ上手だったように考えられているが、これもまた<家康神話>にすぎない」と最初から痛快です。
そして「この戦いの過程をよく見ると、相手方が信じ難いようなミスを重ねていることが明らかである。相手チームのエラーに乗じての大勝だったといえなくもない」。これでは家康ファンは納得できないか。

そして「家康側は一つの戦闘(battle)を制したまでで、戦争(war)に勝ったわけではないからである。実際、総合的な力の差は、歴然としており、一戦闘の勝利くらいで埋まるものではなかった」とまとめています。

ではなぜ長久手での勝利がことさらに言われるのか。

江戸時代に「日本外史」を著した頼山陽が、秀吉と争ったこの戦いこそ、家康天下取りの節目だったと主張したことをあげ、「(江戸時代は)家康の<偉業>をたたえようという傾向が強かった。こうしてつくられた<家康神話>がいまだに生きながらえていて、プロの学者にまで影響を及ぼしているのである」と、いやはやバッサリです。
なにしろ、「小牧・長久手の戦い」をとりあげた章のタイトルが「御用史観の舞台裏」ですから。