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BLOG校長ブログ

2023.08.30

久しぶりの「邪馬台国」 その①

佐賀県の吉野ケ里遺跡でこれまで発掘されなかった石棺墓(せっかんぼ)の内部調査が行われ、新聞やテレビで久しぶりに「邪馬台国」が話題になりました。研究を大きく進展させる発見はなかったようですが、9月には未発掘エリアの調査が再開されるそうです。それに触発されたわけではないのですが、卑弥呼、邪馬台国に関する近刊が書評で話題になっていたので、「復習」も兼ねて手にとりました。

『卑弥呼とヤマト王権』(寺沢薫、中公選書=中央公論新社、2023年)

この本で主に論じられるのは奈良県桜井市の纏向遺跡です。筆者の寺沢さんは国内の考古学研究をリードしてきた「橿原考古学研究所」に長く勤務し、現在は纏向遺跡の発掘調査、遺跡保存、研究成果の発信を目的とする「桜井市纒向学研究センター」の所長を務めています。

と聞くと、卑弥呼や邪馬台国に関心のある人は、邪馬台国があったのは今の奈良県内とする、いわゆる「大和説」の論者の一人か、それならばあまり新味はないのでは、と判断してしまいそうですが、一概にはそうとも言えず、ぐんぐん引き込まれる内容です。

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纏向遺跡は発掘調査で大型建物がいくつもあったことが明らかになり、その柱が復元されています
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少し復習を。

中国の史料「魏志倭人伝」によって、2~3世紀に日本列島に「邪馬台国」という「国(クニ)」があったとされ、さらに、いくつもの「国(クニ)」が争い、やがて卑弥呼と呼ばれる女王がたてられて国々がまとまった、とされるわけです。(国、クニの表記そのものが現代のいわゆる「国民国家」とは規模や成り立ちなどが異なるので、どう定義し表記するかも研究者によって異なり、それ自体が論争の一つになっています)

この卑弥呼から中国大陸にあった「魏」の国に使者が送られて交流が生まれたことから、中国の史料に当時の列島の様子が書き残されることになったわけです。

このころの列島の「国」のありようを記した「文字資料」「記録」は現在のところ日本にはなく、いわば中国の史料に頼らざるを得ないうえ、その記述も簡単な内容なので、その内容だけでは「邪馬台国」が列島のどのあたりあったのかがはっきりとしないまま、古くは江戸時代から「邪馬台国」はここだ、というたくさんの説が提唱されてきました。

大きくは九州北部にあったとする「九州説」、今の奈良県内にあったとする「大和説」が有力とされています。その「大和説」にしても、大きなくくりであって、当時の「国」の人口はせいぜい数万人規模、一口に奈良県内といっても、ではその県内のどのあたりかでまた意見が異なってくるわけです。

寺沢さんは土器の編年から古墳の作られた年代を精緻に検討し、さらには古墳の副葬品などを比較し、文献も参照しながら論を進めます。私が簡単に要約できるような内容ではないのですが、「中国の史書のどこを紐解いても、卑弥呼が邪馬台国の女王であるとは明記されていない。確実なのは倭の女王、倭国女王ということだ」と注意を促します。

つまり「卑弥呼は邪馬台国の女王だと考えるから、九州の「一女酋」にすぎないとか、邪馬台国はもともと奈良盆地の覇者であり、しだいに畿内全域から西日本への連合を拡大し、ついには列島の覇者(ヤマト王権)へと成長したなどといった誤った発想を生むことになる」と、従来の「九州説」も「大和説」も否定します。

争っていた国々が争いをやめるために女王をたて、その女王のもとでまとまった。その王権の都が置かれたのが纏向遺跡の場所であり、邪馬台国は都が置かれた場所(国名)でしかないと主張しています。

/纏向遺跡の解説。「ヤマト王権はじまりの地」と慎重な言い回しです。描かれている人物は卑弥呼?
/纏向遺跡のすぐ側にある箸墓(はしはか)古墳。卑弥呼の墓とみる研究者も多い

このあたりはかなり丁寧に読み込んでいただく必要があるかと思いますが、寺沢さんは、国が乱れているときに国々が戦いによってそれを解決しようとするのではなく、一人の女王をともにたてることで解決しようとしことを「強調したい」と言っています。

魏志倭人伝で「共立」と書かれている「ともにたてる」、それは「壮大な政治的談合(合同)を重ねた結論」であり、「政治・経済の世界ではしばしばマイナスイメージとして語られてきた「談合」とか「根回し」が、二一世紀の国際社会における課題や解決する最も平和的手段であるようにも思える」と。なるほど。