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BLOG校長ブログ

2023.09.01

久しぶりの「邪馬台国」 その②

『卑弥呼とヤマト王権』(中公選書=中央公論新社、2023年)の筆者、寺沢薫さんが所長を務める「桜井市纒向学研究センター」のホームページ内の「纒向遺跡ってどんな遺跡?」には、「纒向遺跡は、初期ヤマト政権発祥の地として、あるいは西の九州の諸遺跡群に対する邪馬台国(やまたいこく)候補地として全国的にも著名な遺跡」とあります。

遺跡としての特徴として、「発生期古墳が日本で最初に築かれている」「農耕具が殆ど出土せず、土木工事用の工具が圧倒的に多い」ことから日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも目されています」と説明されています。

このくらいの広さだろうと想定される地域の面積にしてまだ2%ほどしか発掘調査されていないとのことなので、今後、決定的な発掘成果が得られるかもしれません。

「纏向遺跡」と卑弥呼の墓とみる研究者が多い箸墓(はしはか)古墳(矢印)は近接しています

桜井市纒向学研究センターのホームページはこちら

一方「九州説」でも、九州のいろいろな遺跡などが「邪馬台国」の所在地と言われるのですが、その一つが佐賀の「吉野ヶ里遺跡」ということになるでしょうか。

先日の新しい発掘の成果を披露する見学会の案内が佐賀県のホームページに掲載されています。

吉野ヶ里遺跡“謎のエリア”で発見された石棺墓を特別公開します!

佐賀県では、令和4年度から国営吉野ヶ里歴史公園内にある日吉神社境内地跡の発掘調査を行い、本年で2年目を迎えます。令和5年度の調査で、石蓋に「×」などの線刻が施された邪馬台国時代につくられたと考えられる石棺墓1基が発見されました。この石棺墓は、内部の掘り下げや記録作成を終え、6月14日に一旦調査を完了したところです。この石棺墓を、下記のとおり、2日間、発掘調査現場にて特別公開します。ぜひこの機会に全国的に話題となった石棺墓をご覧ください。

どうでしょう、「邪馬台国時代につくられた」と慎重に書いていますが、自治体として大事にしたい遺跡であることがひしひしと伝わってきますね。

地元紙の佐賀新聞の記事です(ウエブ版です)

<吉野ケ里遺跡・石棺墓調査>「世紀の発見」なかったが…吉野ケ里再び脚光 9月の未発掘エリア調査に期待も

「吉野ケ里遺跡で『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国を思わせる大環濠集落発見、と報じられて34年。邪馬台国時代の石棺墓(せっかんぼ)の内部を調査すると佐賀県が発表し、全国から再び注目を集めた。14日までの発掘調査では「世紀の発見」はなかったものの、吉野ケ里の存在感を改めて示した。」

「緊急会見した山口祥義知事は「副葬品がなかったのが極めて残念」と悔しがった。ただ、かつての「吉野ケ里フィーバー」を想像させるほどの報道陣が詰めかけ、インターネットでも話題になった」

「長年続く邪馬台国の所在地論争を決定づけるものが出るのではないかという期待感から、多くの考古学ファンが注目した」
「今回の調査で論争に終止符を打つことはない」と現場説明会でくぎを刺すほどだった。
「まだ4割は掘られていない。9月に再開する未発掘エリア調査への期待を口にする」

うーん、地元はやはり「九州説」ですかね。

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吉野ケ里遺跡(公園)にはこれまで2度、訪れています。写真は直近?の2017年時、大きくは変わっていないと思いますが。

発掘結果を踏まえて建物群が復元され、その建物の一つの中に等身大の人形が並び、この遺跡がしめす「国(クニ)」の政治の様子が展示されていました(写真上)。もちろん「邪馬台国」と直接結びつけているわけではありませんが、けっこう踏み込んだ再現だと感じました。

写真左下、中央奥の高層の建物の周囲に竪穴式住居が並びます。

印象に残ったことの一つは、建物群の周囲に深い濠・溝が廻らされていて、さらに頑丈な木の柵も廻らされていたことです(写真右下)。これが佐賀新聞の記事にある「大環濠集落」なわけですが、思った以上のスケール感。言うまでもなく「敵」の襲撃を防ぐためのものなのでしょうが、ずっとあとの時代の「城」を思わせるようなものものしいものでした。

吉野ケ里遺跡は歴史公園になっていて、公式ホームページにはバーチャルツアーも用意されているようです。こちらからどうぞ