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BLOG校長ブログ

2023.09.05

久しぶりの「邪馬台国」 その④

「邪馬台国」の所在地は九州か近畿・現在の奈良県かといった論争とは違った角度から「纏向遺跡」(奈良県桜井市)の重要性を指摘した『卑弥呼とヤマト王権』(寺沢薫、中公選書=中央公論新社、2023年)。その寺沢さんの恩師である森浩一さん(同志社大学教授、故人)は、邪馬台国の所在地は九州にあったとするのですが、その勢力が後に近畿に移ったとする「東遷論」を主張していました。

『倭人伝、古事記の正体』(足立倫行、朝日新書、2012年)に、森さんが亡くなる少し前のインタビューが掲載されています。
筆者でノンフィクション作家の足立さんが、北部九州勢力が3世紀に主力を近畿に移してヤマト政権を形成した、という「東遷論」について質問します。森さんは「約50年前に『古代史講座』第3巻(学生社)を刊行した頃(1962年)から考えていました」と答えています。

「東遷論」は九州か畿内かという考えの折衷案ではありません。足立さんは続編とも言える『血脈の日本古代史』(ベスト新書、2015年)で「3世紀代に倭国の権力の中心が北九州から畿内の大和盆地に移動したことは巨大古墳出現で明らかなので、その権力移動を何時、そして誰と捉えるか」といった課題に答える有力仮説の一つが「東遷論」だとしています。

目を引いたのは森さんの、インタビューでの「纏向遺跡」についての評価です。

纏向遺跡の発掘調査で大型建物群の遺構が発見され、「「卑弥呼の宮殿か」と取り沙汰されました」という質問に対して
「僕はその発掘で畿内説が有利になったとは毛頭思わない」
「学者なら、纏向の地で最初期の宮殿遺構が発掘されたとなると、まず考えるのは、記・紀に書かれた宮殿のはずです」(記=古事記、紀=日本書紀)
いやはや、手厳しいというか、明快な意見ではあります。

1980年代、京都で新聞記者をしていた時に同志社大学教授だった森さんに取材する機会がありましたが、話し出したらとまらないといった感じ、とにかくエネルギッシュな人という強い印象が残っています。一方で、ご一緒した他紙の考古学に詳しい記者の方とのつっこんだやり取りを傍らで聴いていて、まだまだ勉強が足りないと痛感もした思い出があります。

ちょっと本筋からはずれますが森浩一さんの著作をいくつか

『巨大古墳の世紀』(岩波新書、1981年)
『天皇陵古墳への招待』(筑摩書房、2011年)

「天皇陵古墳はぼくの終生の研究テーマである」(『天皇陵古墳への招待』より)という森さんには天皇陵に関する著作はたくんありますが、書棚からこの2冊を見つけました。

岩波新書はさすがにちょっと古いかな。『天皇陵古墳への招待』については、このブログ「久しぶりの「邪馬台国」 その③」で紹介した『森浩一の古代史・考古学』のなかの「森浩一入門--いま読める10冊」で「天皇陵古墳を、あくまで考古学資料として扱い、現代の天皇陵古墳研究のベースとなる一冊」と紹介されています。

森さんが幅広い分野に関心を持ち研究していることがうかがわれる1冊。

『この国のすがたと歴史』(2005年、朝日新聞社)

中世史研究に大きな足跡を残した網野善彦さんとの対談本。専門分野は異なるものの日本文化の特質や列島の地域ごとの特色、交流などについてそれぞれの学識を惜しみなく披露して縦横無尽に語り合っています。