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BLOG校長ブログ

2023.09.08

この夏の乱読 その②

この夏、大変興味深く読ませていただいた1冊、『平治の乱の謎を解く 頼朝が暴いた「完全犯罪」』の筆者、桃崎有一郎さんは1978年生まれ、歴史学界でおいくつぐらいまでが新進とか若手の研究者とか言われるのかはわかりません。この本の帯には「気鋭の学者」とありますが。すでに意欲的な著作を次々と出しています。

これまでの著書のうち

『平安京はいらなかった――古代の夢を喰らう中世』(吉川弘文館、2016年)
『「京都」の誕生--武士が造った戦乱の都』(文藝春秋、2020年)
『京都を壊した天皇、護った武士--「一二〇〇年の都」の謎を解く』(NHK出版、2020年)
『室町の覇者 足利義満』(ちくま新書、2020年)

は購入記録があるのですが、書棚から “発掘” できたのはうち2冊。いつもながら整理の必要性を痛感しつつ。

どうですか、どの本もタイトルが絶妙で刺激的でそそられませんか。「平安京はいらない? どうして」とか「京都を壊したのは乱暴な武士だろう」と突っ込みたくなりますよね。

『平安京はいらなかった――古代の夢を喰らう中世』(吉川弘文館、2016年)

平安京やそれに先立つ平城京、藤原京などは、教科書や資料集などにある通り、宮殿・内裏を置いて道路が碁盤目状に造られ、家々が立ち並んでいたという光景を想像してしまいがちですが、それはあくまでも理想的な姿。平安京は早い段階から街中を左右に分けたうちの「右京」は低湿地で住居地には向いていないことから衰退し、対照的に「左京」側は鴨川の東側、碁盤目状の外側に街が広がっていきます。

一方、戦乱や火事で焼けた後の市街地は御所周辺の「上京」といくつかの道路でつながった「下京」に二分されたことも近年の研究で明らかになってきているし、さらには豊臣秀吉が市街地を「御土居」と呼ばれる土塁で囲むなどの大改造をしたこともよく知られているわけです。

桃崎さんは、
「平安京が、造営当初から一貫して実用性を欠き、未完成で、そもそも過大(オーバーサイズ)な都市であった」
「その設計思想では理念が優先し、実用性は二の次であり、平安京はいわば “住むための都市” や “都市民が使うための都市” ではなかった」
「それは最初から “秩序を見せる都市” であり、つまり “秩序を目に見える形で人々が演じる都市” 」
ととらえ、「要するに劇場として造られた都市であった」とまとめます。

『「京都」の誕生--武士が造った戦乱の都』は手元で確認できないのですが、『平安京はいらなかった』のあとがきで桃崎さんは「古代末期に無用の長物という烙印を押された平安京は、中世に入って真に “劇場都市” として甦り、活用されてゆく。そして、これまで現代京都の出発点となった中世京都は天皇・公家・町人の都市と信じられていたが、中世京都を真に築きあげたのは武家政権であったと、私は見通している」とあります。この「見通し」によって書かれたのでしょう。

室町幕府三代将軍、足利義満については、天皇の地位を奪おうとしたという説(皇位簒奪)が『室町の王権 足利義満の王権簒奪計画』(今谷明、中公新書、1990年)で紹介され、話題になりました。

桃崎さんは「実は今、その説を信じる歴史学者は皆無に近い」とまで書いています。今谷さんの著作の発刊後に反論がたくさん出てきたことは知っていますが「皆無」と言われるとさすがに・・・。とはいえ「さらに研究が進んだ結果、義満が天皇家との融合を図っていた証拠が見つかり、皇族化を狙っていた可能性が見えてきた」「義満像も室町幕府像も、大きく書き換えられつつある」そうです。

本書はそこに切り込んでいくわけですが、簒奪か皇族化は置いておいても、義満と相対した天皇がいるわけで、その後円融天皇の「日記の全容を、本書は初めて一般向けにお目にかける。そこには皇位についての、天皇と義満の二人きりの、密室での密談が記録されていた」とも。このあたりの書きっぷり、『平治の乱の謎を解く』に通じるところもあるような。

前後しますが「平安京」からみで大変ユニークな視点で書かれた本があります(ユニークとのくくりは筆者に失礼かもしれませんが)。

『平安京のニオイ』 (安田政彦、吉川弘文館・歴史文化ライブラリー、2007年)

もちろん歴史学が「平安京」のニオイを再現できるわけではなく(化学者でも無理ですが)、さまざまな文献や史料からニオイに関する部分を集めて、考察します。

平安京ということで貴族社会が思い浮かび、貴族、特に女性の雅(みやび)、麗しき香りと連想していきそうですが、いやいやそうではない、現実は、という話しです。どうでしょうか、想像がつきますか。

桃崎さんが「理念が優先し、実用性は二の次」「住むための都市ではなかった」と指摘していることを、別の角度から考察、主張している、という言い方もできるでしょう。

少し前の刊行ですが、桃崎さんの話を書いていて、この勉強になった著作を思い出しました。