2023.10.04
福井謙一さんがノーベル化学賞受賞の知らせを聞いた1981年10月19日、妻の友栄さんは著書『ひたすら』(講談社、2007年)で「こちらには事前に何の連絡もない」と明かします。テレビの速報と新聞社からの問い合わせの電話から「騒動」が始まるわけです。友栄さんの勧めで着物に着替えた謙一さんは午後10時過ぎから京都大学に近い自宅で何十人もの記者と対応することになります。昼間なら大学と連絡をとって、大学構内で記者会見、となるのでしょうが、何しろ夜のことです。
「外国では、この十年間程、受賞ライン(またはホットライン)に近いという噂を知らせてくださる方もたくさんいた。数年来、夫は夫なりに十月はなんとなく落ち着けない日々もあったが、月日は音もなく過ぎていった」
と明かしてはいます。
「午後十時半頃には、家中に人が溢れかえり、廊下も人々で殺気立ち、最初は写真を貸してほしいと依頼していた記者も、そのうちわれ先に家探しの状態となり、断りなくアルバムごと持ち出している」
いくらおめでたい話といえども、そこまでやるかと他人事のように批判はできますが・・・
息子さんが駆けつけてきて記者から感想を聞かれたところ
「僕はテロップ(ニュース速報のことでしょうね)を見て、京大の福井謙一というと親父ひとりしかいないかなあと思って、ともかく飛んできたんですよ」
と返事をしたそうです。
授賞式のあったストックホルムではこんな秘話? も。
夫(福井謙一さん)は、午前中ノーベル財団に賞金受領に出かけたが、受領書にサインした後、この時に頂戴した小切手を持ち帰るのを忘れ、財団の方が、あわてて追いかけてくださったらしい。(略)
私も、夫ならさもありなんと、しばらく笑いがとまらない。
福井さんは京都大学を定年でお辞めになった後、同じ京都にある国立大学の京都工芸繊維大学の学長になります。
この時期、国立大学は入学試験制度改革で大揺れ、福井さんは学長として工芸繊維大学のみならず近畿地区の大学のとりまとめ役をせざるを得なくなるのですが、大学入試制度は、およそ学術研究とはかけ離れた利害調整を求められます。記者会見などではいつも難しそうな表情でした。「こんなことやりたくないんだろうな」と勝手に想像してもいました。
学長を退いた後、京都市内に新たに開設された「財団法人基礎化学研究所」の所長に就任、研究所を訪ねてインタビューさせていただきました。ご自身がまさにそうであったように、すぐに新しい技術や製品に結び付くことばかりを追い求めるのではなく、基礎研究が重要ということをくりかえし強調していました。
などと大層なことを書いていますが、まだまだ国内でも数少なかったノーベル賞の研究者に、ぺえぺえの記者が1対1で会ったのですから、とにかく緊張したことが忘れられません。(この時点で自然科学分野で福井さんが4人目、ご存命だったのは江崎玲於奈さんだけ)
「財団法人基礎化学研究所」は現在「京都大学福井謙一記念研究センター」となっています。公式ホームページはこちらから