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BLOG校長ブログ

2023.10.10

「天下統一」に異説--『戦国秘史秘伝』を読む

「戦国秘史」という「そそられる」題名がついていて、また新書でもあるのでつい手が出てしまいますよね。もちろん筆者が藤田達生さんということが決定打ではあるのですが。

『戦国秘史秘伝 天下人、海賊、忍者と一揆の時代』(藤田達生、小学館新書、2023年)

このブログ「環伊勢湾戦争」の①②(8月25日、26日)でふれましたが、徳川家康と豊臣秀吉が唯一直接対決した「小牧長久手の戦い」については「環伊勢湾戦争」と呼ぶべきだと提唱している研究グループの中心がこの藤田さんです。

「伊勢湾」をめぐって

「環伊勢湾戦争」という新しい視点が興味深かったのですが、この『秘伝』でも織田信長が今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」(永禄3年、1560年)について

「尾張時代の信長は、津島や熱田といった流通拠点の維持に腐心した。これは伊勢湾支配を構想していたからであろう」

とし、その伊勢湾に臨む知多半島への進出しようと動いた今川義元と衝突することになる、そこから桶狭間の戦いは「知多半島の争奪戦」と位置付けています。

それだけ伊勢湾が当時の列島の流通の重要拠点であったとの見方で、それが後に登場人物は変わりながらの「環伊勢湾戦争」(小牧長久手の戦い)にもつながっていくというとらえ方ですね。

「伊賀越え」か「甲賀越え」か

またかい、と言われそうですが、NHK大河ドラマ「どうする家康」で「本能寺の変」の直後に家康が堺から三河にやっとの思いで逃げ帰る、いわゆる「神君伊賀越え」がとりあげられていました。ドラマのその回の題も「伊賀を越えろ」でした。

とはいえ、この逃走ルートには従来からいくつかの説があって、藤田さんはルートにあたる地域の治安状況、つまりは家康の逃走を助けたとされる「伊賀の忍者」あるいはそれと並び称される「甲賀の忍者」の実態などの研究をもとに、「甲賀越えの方が合理的理解だと考えている」とします。当時の国名としては近江、その中の甲賀郡を家康一行は主に通ったという説ですが、「近江越え」ではなく、この忍者のイメージから「伊賀越え」に対して「甲賀越え」という言い方になります。

ではなぜ「伊賀越え」と後世伝わったのか。江戸時代になって「戦い」がなくなり、その能力を発揮する機会を失い勢いのなくなった伊賀勢(忍者)が、「自分たちの祖先は家康を助けるのにこんなにも働いた」ということをアピールしようとしたのだろうと藤田さんは推測しています。

このほかにも本能寺の変の原因の一つのして近年注目されている、四国の取り扱いを巡って信長が明智光秀の考え方、要望を無視する指示命令をして、立場をなくした光秀が行動に出たという説、その裏付けともされる古文書(手紙)がどのようないきさつで発見され、解読されたのかなど、興味深い話が盛りだくさんなのですが、大河ドラマでつい先日とりあげられたところに関してもう一つだけ。

天正18年でいいのか

1590年(天正18年)、秀吉軍(家康も加わっています)が小田原に北条氏を攻めて降伏させます。この後に家康は江戸に移ります。秀吉が家康に江戸に行けと命令していましたね。

藤田さんは「通説のように天下統一の完成を北条氏が敗退した天正十八年とすることは明らかな誤り」と主張します。というのも、藤田さんはこう述べます。

「天下統一とは、城割・検地などの仕置きを通じて「日本六十余州」の収公を完了し、天皇の代行として関白が国土領有権を掌握することだった。決して、戦争を通じて反抗する戦国大名がいなくなることを意味するのではない」

そして

「秀吉が奥州再仕置を終え、諸大名に対して全国の御前帳と郡絵図を調進させた天正十九年に求めるべきなのである」

と唱えます。単に「戦闘」が終わっただけでなく、その後に税制度などの統治体制が共通のものになって初めて「統一」と言えるということ、経済の視点も重要だということですね。