2023.11.15
NHKの大河ドラマ「どうする家康」をまたとりあげます。「しつこい」と叱られそうですが、いよいよ終盤というか、ようやくというか「関ヶ原合戦」、5日は「天下分け目」、12日は「関ヶ原の戦い」のタイトルで、戦い前夜から戦い当日、戦後処理までを描きました。ドラマのクライマックスとも言える「関ケ原」、合戦そのものの勝敗ははっきりとしていて、また、これによって家康が天下人となったと説明されるのでよく知られているわけですが、近年、新説も出てきて、なかなかにぎやかです。
「石田襲撃事件」
「直江状は偽書なのか」
「小山の評定はなかったのか」
「関ケ原が決戦場となった理由は? 本当の決戦地は」
「合戦は早期に終結したのか、問い鉄砲はなかったのか」
このうち、朝鮮半島から戻ってきた大名武将たちが石田三成を恨み、京都・伏見の三成屋敷を襲撃したものの、家康の取りなしで戦いにならないですんだ「石田襲撃事件」、上杉景勝の腹心、直江兼続が家康に送った書状(手紙)いわゆる「直江状」については大河ドラマで描かれていましたが、このあたりこだわっているとなかなか先に進みません。
「小山の評定」は5日放送のハイライトでした。会津(福島県)の上杉を討つために徳川勢が下野(しもつけ、今の栃木県)まで進んだところで、石田三成が近畿地方で挙兵したとの報告が届き、「さあどうする」。家康に従ってきた大名諸将の多くが豊臣家に恩顧のある(秀吉に見いだされ取り立てられて出世した)武将たちだったので、家康は「自分に従わず、ここから離れて(三成側について)も構わない」と太っ腹なところを見せるわけです。
その大名諸将を集めたとされる場所が下野・小山の地、「評定」は一般的には戦略などを議論することで、このまま会津・上杉に向かうか軍勢を返して西に向かい三成と戦うかを決める場、ということで「評定」と言われてきました。
小説では、事前に豊臣恩顧の有力大名、福島正則を引き込んで真っ先に声をあげるよう根回しをしておいた、その通りに福島正則が「家康に味方する」と声をあげ、賛同意見が相次ぎ、流れができてしまう、といったパターンが多いようです。
これは小説、ドラマに限らず、関ケ原に関する本でも同じような傾向にあります。例えば
「家康は、二十五日に従軍してきた諸将を集めて、下野小山城(栃木県小山市)で急きょ評定を開き、諸将の旗印を鮮明にさせる作戦に出た」
「家康の巧妙さは、正則を説得する役を同じ豊臣系大名である黒田長政に依頼したことである」
「小山評定は案の定、最初は誰も重い口を開こうとはしなかった。やがて福島正則が立って、「秀頼様のためには、三成を討つことこそ肝要である。そのために今回は是非家康公にお味方したい」と言った」
このくだりについて、どのような史料によるのかの記述はありません。
もう一冊。
「家康の着陣とともに、宇都宮に在陣していた秀忠はじめ諸将も小山にきて、軍評定が開かれた。これが有名な小山評定である」
「小山評定が開かれた日にちについては、二十四日と二十五日の二説がある。(略)最近では二十五日説が採られているようだ(『新訂 徳川家康文書の研究』中巻ほか)
大河ドラマではまず家康が力強く語って諸大名が感銘を受けたかのように描かれていました。そして福島正則が力強く発言していました。
これに対して「そもそも小山評定はなかった」という新説が出されました。
白峰さんの指摘は多岐に渡るのですが、小山評定については
小山評定の内容は非常に感動的なストーリーであり、関ケ原合戦に至る経過の中で最もよく知られた名場面として知られている。関ケ原合戦の歴史ドラマでは、静まり返った評定の場で、福島正則が家康に味方することを大見えをきって真っ先に発言するくだりでは、視聴者の感動を呼び起こす一つのクライマックスといってもよいだろう
と紹介してうえで、「歴史的事実ではない、江戸時代に誕生した「小山評定」」と明快に否定しています。
(白峰説の詳しい紹介は次回)
*「関ケ原」の表記ですが、「ケ」が大きい字だったり、小さい「ヶ」だったり、けっこうまちまちです。関ケ原古戦場記念館は大きい「ケ」で表記されています。書名はそのままとします。