2023.11.17
笠谷和比古さんが『論争 関ヶ原合戦』(新潮選書、2022年)で「小山評定」を描かなかった例としてあげた映画『関ヶ原』は2017年制作公開。司馬遼太郎原作『関ヶ原』の映画化作品です。司馬の原作をチェックしました。
確認した文庫本は1980年発行の15刷、作品そのものは1964年~66年に週刊誌で連載されています。「小山評定」のくだりは文庫本中巻、ちょうど真ん中あたりに出てきます。
「すべては、あすである。あす、豊臣家の諸大名がことごとく参集したうえで西上の意見を盛り上げるべきであった。それには、工作が要る。」
「家康は、あす、この小山でひらかれる諸侯会議こそ徳川家盛衰のわかれみちであるとみていた」
そして家康は近臣を呼び、会議で自らがまず発言するが、その後に最初に声をあげる役目が大事だと説き、福島正則の名前をあげます。そして黒田長政が福島正則を口説くことになり、黒田が福島を説得するやりとりや当日の「評定」の様子を細かく描いています。
文庫本でも3巻になるほどの大作ですから、原作をすべて映像化できるわけではありません。映画のシナリオつくりの段階で、この「小山評定」をめぐる論争をどの程度考慮したかはわかりません。劇場でこの映画見ているのですが、恥ずかしながらこの「小山評定」が描かれていたかどうかは覚えていません。
ちなみにこの映画での石田三成役は岡田准一さん、NHKの「どうする家康」では織田信長役でしたね。
この後の関ヶ原の地での「決戦」に比べると、小山でのできごとにさほどこだわる必要はないのではとの指摘も受けそうですが、関ヶ原合戦の全体像をつかむうえで、小山でのできごとは結構重要な位置づけだと思います。
関ヶ原合戦というと徳川勢と豊臣勢が正面からぶつかり、どちらが天下をとるかという意味合いで「天下分け目の合戦」などと呼ばれてきたわけです。しかし、大河ドラマもきちんとおさえていましたが、徳川勢といってもかなりの部分がいわゆる「豊臣恩顧」の大名諸将です。豊臣秀吉に育てられ秀吉のために戦ってきた武将たち、そんな武将たちが、「豊臣」相手で戦うでしょうか、秀吉はもういないにしても子の秀頼がいるわけです。
家康としては相手は豊臣でなく、毛利であり、石田でなければならない、秀頼が戦場に出てきてもらったら困る、そういう悩みを抱えながら、上杉攻めをやめて西に向かおうとする、そのターニングポイントが小山なわけです。ここで失敗したら、徳川もけっこう危ない。だからこそ、この小山をうまく乗り切った、「さすが家康」ということで、後の世にドラマチックな「物語」がつくられたのでしょう。
このあたりについて笠谷さんは『論争 関ヶ原合戦』で以下のように書いています。
「従来の関ヶ原論は、それを豊臣政権から徳川政権への転換をもたらした事件として捉え、同合戦における東軍の勝利を以て家康の覇権の確立と、その後二六〇年余にわたる徳川政権の盤石の基を築いた画期として理解してきた」
「これに対して筆者(笠谷)は(略)同合戦において最も多くの果実を得たのは徳川勢ではなく、家康に同盟して東軍として戦った豊臣系武将たちであった事実を踏まえて、同合戦はむしろ豊臣政権の内部分裂の所産であり、それに家康の天下取りの野望が複合したものとして位置づけるべきものであるとした」
また、『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』(PHP新書、2019年)で渡邊大門さんは今後の関ヶ原合戦の研究の方向性に言及しています。
「関ヶ原合戦については、当日の戦いの重要性もさることながら、今後は豊臣政権の問題として捉え、政治過程および諸大名の動向を精緻に探ることが、問題の本質に迫るカギになると思われる」