2023.11.18
NHK大河ドラマ「どうする家康」の12日放送第43話、タイトルはまさに「関ヶ原の戦い」、合戦シーンはそれなりにありましたが、比較的淡々と描き、むしろ敗れてのちに捕まった石田三成と家康が対面する場面がクライマックスのようだったこと、西軍の総大将なのに大阪城を出なかった毛利輝元に対して、秀頼生母の淀殿が敗戦をなじって叩いてしまったのにも、驚きました。(合戦後の幕府誕生が明日19日の放送のようなので急ぎます)
さて「関ヶ原の戦い ①」で紹介して論点のうち「合戦は早期に終結したのか、問い鉄砲はなかったのか」に注目して12日の放送を見ました。合戦にどのくらいの時間がかかったのか(戦いは何時ごろに終わったのか)は放送でははっきりとしませんでしたが、家康は合戦の当初は後方にいて戦いの推移をみて中央部に進み出たという、あまり意見の相違のないとことはきちんと描かれていました。いすれにしても、この合戦の時間、問い鉄砲についての論点は、小早川秀秋がどう動いたかがカギとなります。
秀秋は結局は徳川方、東軍として戦い、勝敗の行方を大きく左右したとされてきました。ただ、いつ東軍に協力することを決めたのか、少し離れた山の上に陣を敷き、東軍西軍どちらが有利かを見極めたうえでどちらにつくかを決めた「日和見」、優柔不断な武将、秀吉の親族なので西軍につくのが当然ながら東軍についたのだから裏切りとか、散々に言われてきました。
白峰旬さんは『関ヶ原合戦の真実』で「小早川秀秋が裏切ったのは開戦と同時だった―――当日午前中は傍観していたというのは間違い」と断言します。
「通説では当日の正午頃まで秀秋は去就をあきらかにしておらず、石田三成方を裏切って大谷吉継隊を攻撃したのは正午頃としているが、これは同時代の一次史料では全く確認できず、一次史料による根拠がある話ではない。よって、この点については、軍記物などによって後世につくられたフィクションであると考えられる」
として、開戦と同時に小早川秀秋などが裏切ったために敵(西軍)は敗軍になったと書かれている書状を紹介しています。
さて「問い鉄砲」です。関ヶ原合戦を伝えるなかで「小山評定」と並んでドラマチックなエピソードとして伝えられてきました。東西両軍の衝突が膠着状態になり、東軍に味方すると事前に約束していた小早川軍がいっこうに動かない、これにいら立った家康が小早川軍に向けて鉄砲を撃たせた。これにあわてふためいて動転した小早川軍が山を降り、東軍として戦いに加わったというストーリーです。
これだけ聞くと、小早川秀秋はトホホの人、なんとも情けない人のようにとらえられてしまい、かなり気の毒ですよね。いずれにしても「問い鉄砲」は、秀秋はしばらく様子見をしてから東軍に加わることを決めた、あるいは東軍に味方すると約束しながらなかなか実行できなかった人、という見方が前提になっているエピソードです。
ドラマ「どうする家康」では小早川陣営に向かって鉄砲と撃つという「問い鉄砲」はありませんでした。家康本人・本陣が後方から戦いの中心部に進み出てきたのを知った小早川秀秋が自らの決断で西軍の大谷軍を攻める指示を出したように描かれていました。「どうする家康」での小早川秀秋は結構凛々しい若者として描かれていたので、決断できないトホホの人では整合性がとれないということだったのかもしれません。
「問い鉄砲」についても白峰さんは明確です。開戦と同時に東軍として戦ったのだから問い鉄砲はありえないという話ではあるのですが、やはり一次史料について言及します。
「この「問鉄砲」(表記のままです)の話は、関ヶ原合戦当日の状況を伝える同時代の一次史料には記載がなく、後世の編纂史料にしか記載が見られないという点のほか、「問鉄砲」の話の内容自体にいろいろなバリエーションがあり、話の内容が一定していない」
「江戸時代前期に成立した編纂史料には「問鉄砲」に関する記載がなく、江戸時代中期~幕末にかけて成立した編纂史料に「問鉄砲」に関する記載が見られることがわかる。このことは「問鉄砲」の話が江戸時代中期に創作されたものであることを強く示唆している」
渡邊大門さんは『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』で以下のように「判定」しています。
「(問鉄砲については)一次史料には、明確な記述はない。しかしこのエピソードは脈々と受け継がれ、今や関ヶ原合戦に関する小説、テレビドラマなどではすっかりおなじみのシーンとされる一つである」
「ところが近年になって、白峰旬氏が「問鉄砲はなかった」ことを証明し、学界にも広く受け入れられつつある(白峰:二〇一四)」