04-2934-5292

MENU

BLOG校長ブログ

2023.11.20

関ヶ原の戦い(5)「問い鉄砲」はなかった?②

関ヶ原合戦で徳川家康率いる東軍側が、小早川秀秋の参戦を促すために小早川陣営にあえて銃撃したという「問い鉄砲」ですが、事実ではないという見解が学界では受け入れられつつあると渡邊大門さんは書いています。では関ヶ原研究をリードしてきた笠谷和比古さんはどうでしょう。

『関ヶ原合戦』(笠谷和比古、講談社学術文庫版、2015年)
『論争 関ヶ原合戦』(笠谷和比古、新潮選書、2022年)

まず『関ヶ原合戦』です。
「ついに家康は意を決して、小早川隊に向けて誘導の銃(「問い鉄砲」)を放たせた。この無謀とも見える策は、しかしながらみごとに奏功し、若い秀秋は動転して老臣らの言に耳を傾けるいとまもなく全軍に叛撃を指令した」

特に史料についての注釈はありません。結構はっきりと「問い鉄砲」を肯定しています。

その後に刊行された『論争』ではどうか。
「小早川隊が逡巡して動かなかったことは、徳川系の史料だけでなく、小早川の裏切りの仲介をした黒田長政の黒田家の『黒田家譜』にも明記されている」

小早川軍は開戦直後から東軍側で戦ったわけではないという前提で、小早川軍側で鉄砲の射撃音のようなものが聞こえたため、それを確かめようとした小早川軍の使いに徳川方の武士が「誤射」だったと説明した、という話が載っている物語を紹介し、こちらの方が当時の状況にあっているという「心証を得る」としたうえで、

「そのような誤射の体裁を装うという抑制された形での警告射撃であったのだけれど、後世、家康側からの警告射撃に促されて秀秋が進撃したという話が独り歩きすることによって、家康の鉄砲部隊が松尾山山頂めがけて一斉発砲(いわゆる、つるべ撃ち)したという華々しい話への肥大化していったものであろう」

いかがでしょう。少し自説を修正しているようにも読めますが。

わたし自身は、秀秋側が東軍から鉄砲を撃ちかけられたとしても、それであわてて東軍に加担するのがなぜなのかずっと疑問に思っていました。

秀秋が「家康が怒っている」と怖くなったので事前の約束通り東軍に加わることにしたという説明なのでしょうか、それにしても東軍が勝つという見極めがあってのことでしょう。東軍が負けるなら家康が怒っていようがいまいが関係ないわけですから。

一方で「この無謀とも見える策は、しかしながらみごとに奏功」と笠谷さんが書くように、家康にとっての「問い鉄砲」はかなり危険な「賭け」ですよね、怒った小早川が西軍についてしまうことだって想定されるわけですから。家康がそんな危ないことをするかという疑問もあります。

豊臣家の人間である秀秋がなぜ東軍についたのか、それはどの時点か、ということが関ヶ原合戦の全体像を考えるうえではより重要です。秀秋の東軍参加は、笠谷さんが指摘する「合戦は豊臣政権の内部分裂の所産」の象徴的な例になるし、そのように持っていった徳川側の「政治力」のたまものではないか。

小早川がどちらにつくかわからないままの危ない状態で家康が勝負をかけたのかどうかという論点もありますね。そのあたりを考え出すと、そもそも徳川軍の主力であった秀忠率いる本隊が関ヶ原に到着しないうちに豊臣恩顧の大名武将を主戦力として戦わざるを得なかった、ある意味アクシデントといってもいいような戦いだったので、徳川と小早川とが事前にある程度の話はしていたものの家康が100%小早川を信頼していたかはそれはあやしいですよね。

『謎解き 関ヶ原合戦』(桐野作人、アスキー新書、2012年)

桐野さんはこう書いています。

決戦が始まってから秀秋が逡巡していたのは西軍と東軍のどちらにつくか迷っていたからというのが従来の通説だった。だがむしろ、本来は東軍についていたはずなのに、関白職という恩賞をぶら下げられて、秀秋に一瞬の迷いが生じた。つまり、東軍から日和見にぶれたとみるべきではなかろうか。秀秋の一時的なぶれがほどなく旧態に戻ったとき、小早川勢は松尾山を下ったのである」