04-2934-5292

MENU

BLOG校長ブログ

2023.11.21

関ヶ原の戦い(6) 戦い終わって

関ヶ原合戦での「問い鉄砲」の有無はおいておくとして、小早川秀秋はどうして東軍についたのか、これは知りたいところではありますが、秀秋の心の内がわからない以上、永遠の謎といってもいいのでしょう。合戦が具体的にどのように行われたのかは、関ヶ原合戦に限らず、信ぴょう性の高い史料が残らないという点では宿命的であり、限界があります。

笠谷和比古さんも書いているように、豊臣政権から徳川政権に移っていく中でこの関ヶ原合戦をどう位置付けるかという視点・分析が何より重要だということは忘れないようにしたいですね。東軍vs西軍、勝った方が天下を取るといった構図はゲームのようにわかりやすく、受け入れられやすいだけに、心したいところ。

そういった点で気になったのは大河ドラマ「どうする家康」で戦いに勝った徳川方の武将たちが「これで天下をとった」的な物言いをしていたことです。敗れたのは石田三成とその仲間たち、豊臣秀頼は大阪城で健在です。20日の放送では家康が関ヶ原は終わっていない、豊臣系の大名たちの内輪もめだ、といった趣旨の発言で臣下をたしなめるシーンはありましたが。

もちろんこの3年後に家康は征夷大将軍になり、いわゆる江戸幕府を開くので、関ヶ原合戦が大きな転機となったことは間違いないのですが、江戸幕府ができた以降も豊臣の威光はなかなか衰えず、江戸幕府と大阪の政権が両立する「二重公儀体制」といった説を提唱する研究者もいるくらいです。

だからこそ家康は関ヶ原で東軍として戦った豊臣恩顧の大名の力を少しずつ削いでいき、ついには大阪の陣で豊臣体制を完全につぶすわけです。天下はもう少し先、大河ドラマももう少し続きます。

関ヶ原の戦いをまったく異なった角度から分析した興味深い本もあります

『「関ヶ原」の決算書』(山本博文、新潮新書、2020年)

「関ヶ原の戦い(2)小山評定はあったのか②」でも少しとりあげた本ですが、「決算書」とあるように、戦いにどのくらいの費用がかかったのか、勝敗によって勝者がどのくらいの利を得たのか、敗者はどれだけのものを失ったのかをまとめています。

もちろん通貨で経済が動く時代ではないので、必要とされた米、その価格などで考えていくことになります。当時の史料から兵士1人あたり1日5合の米が必要だったと割り出し、東軍、西軍が動いたほぼ3か月間で動員された兵士の数をかけていくと両軍で50億円以上の兵糧米が消費された、としています。

戦いの後、勝った東軍の豊臣恩顧の大名ともとからの徳川の家臣たちは新しい領地を与えられさらに加増(収入が増える)されます。その原資は敗れた西軍の大名諸将から取り上げた土地です。

「その時代の日本全体での武士の年収が一八五〇万石、七四〇〇億円ほどだと考えると、そのうち三六・二%、二六八五億二四〇〇万円が敗者から勝者に移動したわけである。関ヶ原合戦が、敗者と勝者のその後の運命にあまりに大きな影響を及ぼしたことは火を見るよりも明らかだろう」

古戦場を歩く

さてその「決戦」があった関ケ原ですが、最近のドラマ関連の番組などで古戦場を紹介する際に「岐阜関ケ原古戦場記念館」という立派な施設が出てきます。「えっ、そんな施設ができたんだ」というのが率直な感想でした。

私が関ヶ原を訪れたのは2012年、簡素な資料館があるぐらいで、そこで地図などをいただき、石田三成はじめ島津、小西、大谷勢の陣跡などをのんびりと歩いて回りました。途中すれ違った小学生たぢが「こんにちは」と見知らぬおじさんに笑顔で挨拶してくれたのがなんとも嬉しかったことを今でもよく覚えています。

記念館は2020年オープン、ウエブサイトを見るとなかなか充実しているようで、改めて訪れれば新しい発見もあるでしょうが、なかなか。迷いながら歩いたから見えたものもあったはず、と自分に言い訳しておきます。

岐阜関ケ原古戦場記念館の公式ホームページはこちらから