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BLOG校長ブログ

2023.12.11

家康話も大団円 ①

今年しつこく取り上げてきたNHK大河ドラマ「どうする家康」も来る17日が最終回。このブログで少し書いた関ヶ原合戦以降、徳川家康が征夷大将軍になり、大阪の陣にいたるまで、つまりドラマの最終盤を迎えるにあたって新しい本はないかと考えていた時、タイトルの副題にひかれて読んでみました。いや、なかなかおもしろかったです。

『新説 徳川家康 後半生の戦略と決断』(野村玄、光文社新書、2023年)

そもそも後半生はどこから、ということになるわけですが、幕府を開いてそれを確固としたものにするという家康の仕事から逆算していくと、これはなかなか難しいですよね。やはり、豊臣秀吉の死あたりということでこの著作も始まります。そうなると時間軸としては結構長い(ページ数もなかなかの量です)。加えて、そこにも新しい見方が盛りだくさんで、ちょっとはぶくにはもったいない。ドラマが終わろうとしているのに家康が若返りますがご勘弁を。

「一次史料」にもとづくことを強調していて、数多くの大名・武将間の書状(手紙)が紹介されます。

例えば家康率いる軍勢の奥州・会津攻めです。会津にいる上杉景勝に京・大阪に出てくるよう求めたのに言うことを聞かない、ということで兵を進めます。この最中に石田三成がいわば留守となった関西で家康打倒を掲げて挙兵し、結果的に関ヶ原合戦につながることから、家康の会津攻めがどこまで本気だったのか、三成をその気にさせる陽動作戦ではなかったかといった見方もされました。小説だったら知謀家・家康といった設定で、こちらの方がドラマチックですよね。

野村さんは意外な史実に注目します。家康の会津攻めは源頼朝の行動をなぞったのではないか、というのです。

この家康の時代から400年以上前になります。平氏を破った後に頼朝はその勢いで奥州(東北地方)に大軍勢を送り込み、平泉の一大勢力藤原氏を滅ぼします。その後に征夷大将軍となり鎌倉幕府を開くということになります。

家康が鎌倉幕府の公式記録といえる『吾妻鏡』を愛読し、政治を進めるうえで参考にしていたことはよく知られています。東国に勢力を持った源氏の長・頼朝が奥州合戦を経て征夷大将軍になったという流れに家康は自らを重ねた、同じように東国(江戸)を基盤とし、徳川も源氏、奥州会津に位置する上杉を抑えこんで征夷大将軍になる、幕府を開く、家康がこういうプランを思い描いていたというのです。

どうでしょう、なかなか興味深い見方ではないでしょうか。この後、その会津攻めを取りやめて西に反転するために豊臣系大名を納得させる、あの「小山評定」などのあたりの家康や三成の動きについても考察しているのですが、もう小山評定でもないでの、少し急ぎます。

関ヶ原合戦そのものについても、家康側(東軍)と三成側(西軍)の主力がぶつかったのはこれまでいわれてきている地名「関ヶ原」だが、西軍の大谷吉継が陣取ったのは少し西よりの史料にも出てくる地名で「山中」といわれる場所、大谷陣の南側松尾山にいた小早川秀秋が山を降りて9月15日の未明、大谷軍とぶつかった、「山中」は主力同士がぶつかった場所(いわゆる関ヶ原)からはかなりの距離があり、家康や三成の本陣からは見通せない場所だった。別の戦いがあった、と言ってもいい。
その後大谷軍を破った小早川軍が「山中」から「関ヶ原」に移動して同日午前7時ごろから東軍方に合流、大阪方を押し崩す戦況だったとします。「戦いは二段階あった」、そして「関ヶ原・山中の戦いと呼ぶべきだ」と提唱するところは、まさに「新説」です。

そうなると小早川秀秋が戦いの様子を見ていて結果的に東軍に加わったといった見立てはそもそもありえないことになります。

「従来の軍記物などに基づいて描かれてきた戦闘の様相とはかなり異なった、徳川方による一気呵成の総掛かり戦であったことがうかがわれよう」

もちろん他の研究者が賛同するのか反論するのかはわかりませんが、なかなか説得力がありました。とはいえ、ドラマ「どうする家康」での関ヶ原合戦より前にこの本が発刊されていたら(もちろん気づいて読んだらですが)、このブログの関ヶ原のくだりも内容が濃いものになったのにと恨み言も少々。