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BLOG校長ブログ

2023.12.12

家康話も大団円 ②

関ヶ原合戦を終えて徳川家康は征夷大将軍になったものの、すぐに息子の秀忠に将軍職を譲ります。徳川が着々と力をつけていくのを豊臣秀頼の大阪方は悔しい思いで見ているしかないのですが、一方で、大阪方にとっての「強み」は秀頼が日々成長していくこと、いわば「これから」の人、対して家康は老いていく一方、家康は豊臣と戦うことと同じように「老い」とも戦わなくてはならないわけです。

将軍職は徳川家が継いでいく、徳川がこの国を治めるという姿勢を見せる一方で、気になるならば豊臣・大阪方をもっと早くに完全に潰すことが可能だったろうに、結果的に大阪の陣は約10年も後になった。幸い家康は長生きをしたからよかったものの、けっこう危うい選択ではなかったか。このあたりは、これまでにも研究者がいろいろと考えてきました。

豊臣・大阪方もまだまだ力を持っており、正面からぶつかるのにはリスクが大きい、じわじわと力を削いでいけばいいと考えていたというあたりが最大公約数的な見方であり、この徳川・豊臣が並び立つ状態を「二重公儀体制」と呼ぶ研究もあり、共存する体制で構わないと考えた大名が多かった、とうの家康さえそれを許容していたといった見方すらあります。

『新説 徳川家康 後半生の戦略と決断』(光文社新書、2023年)で著者の野村さんは秀吉死後の家康の行動を縛ったものとして秀吉の遺言を強調します。一般的には、家康は秀吉が死んだあと、その遺言を無視して行動を起こして天下人になったと理解されるのですが、野村さんはこう書きます。

「家康は年寄衆(前田や毛利、上杉など)・奉行衆(石田三成など)との間での起請文を破ることがあったものの(約束を破ることはあったものの)、秀吉の遺言は忠実に守り、家康にとっての重要な政治的行動の時期は全て秀吉の遺言と照らし合わせて決定されていた。そのような姿勢が諸大名からの信望をつなぎとめ、また決定的な失敗を回避してきた要因であろう」

では大阪の陣の時期=重要な政治的行動の時期に関する秀吉の遺言は、ということです。

「生前の秀吉は家康に、秀頼が十五歳から二十歳になるまでの間、天下を治める器量があると見込んだならば、秀頼に天下を返してほしいと述べていた」

つまり、秀吉の願いは、自分の死後は家康に天下を「預ける」が、いずれは豊臣家に天下を還してほしいということですね。秀頼がリーダーとしてふさわしいかどうかを見て判断してと言っているわけですが、秀吉の本音は言うまでもないでしょう。

この「十五歳から二十歳になるまでの間」は、数え年・満年齢で計算すると慶長十二年(一六〇七)・慶長十三年(一六〇八)から慶長十七年(一六一二)・慶長十八年(一六一三)。大阪の陣は慶長十九年(一六一四)のことです。

もちろん、この年限はたまたま偶然かもしれませんが、秀吉恩顧の大名がまだまだ残り力を持っていただけに、その秀吉の遺言を守る家康とい姿勢が重要だったという指摘はなかなか説得力があるとも思いますが、どうでしょう。

そして迎える「大阪の陣」、追い詰められた秀頼は自害して豊臣家は滅びるわけですが、野村さんは「家康は秀頼の殺害までは考えていなかったようである」と指摘します。

「家康にとっては秀忠の器量を示す場として大阪の両陣が何としても必要であり、秀頼の敗北が決定的となれば秀頼に対する秀忠の優位は動かず、天下人としての秀忠は安泰となるから、家康は秀頼の殺害までは要さないと判断していたものと思われる」

秀忠は関ヶ原合戦に間に合わず、武将として戦いで成果をあげたことがない、将軍として諸大名を率いていくにはやはり強い武将という実績が必要と家康は考えた。その実績を残す最後のチャンスが大阪の陣、ということですね。野村さんが「秀吉の器量を示す」というのはこのことでしょう。大阪の陣で豊臣家を滅ぼせば、まずその後、大きな戦いは起きないことが予想されますから(つまり武将としのて強さを見せる機会がない)

しかし結果は家康の望んだものとは違ったわけで、どうしてそうなったのか。むしろ強硬策を主張したのは息子、二代将軍の秀忠のほうで
「やはり家康は最後まで秀吉の遺命を気にし、自らは手を下せなかったのではないかと思われてならない」
従来「非情」とか「冷酷」とか思われがちだった家康だけに、この解釈はどうでしょうか。

「本書は、いろいろな意味で、従来の徳川家康の評伝と相当異なる内容になっていると思う」
と書く野村さん。

家康が好きか嫌いか、「江戸時代」を日本の歴史のなかでどう位置付けるかはいったん置いておき、約二百六十年間もの「平和」な時代の基礎を築いた政治家・家康についての研究は十分に意味のあることは間違いないわけで、今後も新しい家康像が描かれていくのでしょう。