04-2934-5292

MENU

BLOG校長ブログ

2023.12.14

家康話も大団円 ③

NHK大河ドラマ「どうする家康」で寺島しのぶさんがナレーションをつとめていますが、家康を紹介する時に「われらが神の君」と言っているのが気になってはいました。いかがでしょう。

その「神の君」「神君」、つまり家康は死後神様になった、神様として崇められたということで、そのように整えられたことは歴史的にまちがってはいないわけです。とはいえ、ドラマのナレーションとして生きている家康をこう呼ぶことはどうかと思ってはいたのですが、17日の最終回のタイトルは「神の君へ」、寺島さんは三代将軍家光の乳母春日局役で出演、幼い家光に祖父家康の生涯を語り聞かせるという場面があるとか。そこでは家康のことを「神の君」とたたえるのでしょうから、ナレーションと一致する、ということのようです。

それはさておき、そもそも家康を神様として崇めるようになったことについてです。江戸時代、幕府が諸大名さらには農民らを統治するうえで、幕府の創始者・家康を神としてたたえ崇める、ということなわけですが、どういう経緯でそうなったのか。
少し前の発刊ですが、こんな本があります。

『神君家康の誕生 東照宮と権現様』(曽根原理、吉川弘文館・歴史文化ライブラリー、2008年)

日本での「神」と聞くとまず「日本書紀」や「古事記」などに出てくる神を思い浮かべます。

「神々の優れた働きを認めた日本人であったが、実在の人間を神とみなしたのは、さほど古いことではない」
「古代から中世にかけては、物語の主人公(最後は神になる浦島太郎など)や、世に恨みを残して死んだ怨霊(菅原道真など)、そして天皇を生きた神とみなす観念を除けば、人間が神になるという概念は皆無に等しかった」

「日本人の神に対する意識が大きく転換したのは、中世末期から近世初期にかけての時期である。豊臣秀吉を祀った豊国大明神、徳川家康を祀った東照大権現が出現し、その後、各地の藩祖から、特別な活動をした庶民にまで神格化が広がった」

「神君家康」の登場は、日本の文化史、宗教史の中でも注意を払われる出来事ということになります。

前述の『新説 徳川家康』(野村玄、光文社新書、2023年)では家康が秀吉の遺言にかなりこだわったことが強調されていると紹介しましたが、この『神君家康の誕生』でも、神になるにあたって家康は秀吉をかなり意識していた、ということが述べられています。

秀吉の神号、つまり神様としての名前は「豊国大明神」とされました。しかし豊臣家は大阪の陣で滅亡してしまいます。

「現代の目では、権力者一族の滅亡でしかない。しかし同時代の人々の目には、<秀吉神>の敗北と受け取られたはずである」
「秀吉の試みは、家康に大きな教訓を残した。強力な守護神となれず、孤立して滅びていく神の姿を、家康は間近に見た。徳川の神は、では、どうすれば子孫を守りきれるだろうか」

神になることによって、その「力」で子孫が反映することが目的なのに、秀吉神はそれができなかった。ではどうすればいいのかと家康は悩んだはずだ、ということですね。

「神の子孫とされた天皇は、神号や神階をコントロールする。秀吉神を「豊国大明神」と名付け、「正一位」を与えたのは朝廷であり天皇であった。だが、天皇家の神もその他の神々も、秀吉神を助けなかった。新たな神は、従来の神々を超えた力が必要であることを、家康は意識せざるを得なかっただろう」

家康が遺言で、遺体の埋葬や葬式の場所などについて指示をしたことはよく知られていて、自らは「八州」(関東地方のことでしょう)の鎮守神になる、と話したとの史料もあるようです。ただ、どういう「神」か、ましてや神の名についてまでは指示していないようです。

家康の死後、家康側近の僧侶らの間で、神の名として「権現」を使うか「明神」を使うかという論争が起きます。「明神」は秀吉神に使われたことから、「権現」派が「子孫が滅亡した豊国大明神の例を見よ」と言ったとの記録もあるようですが、曽根原さんは俗説にすぎない、秀忠が熟慮を経て決断した、徳川家が信仰する仏教との関係などから「権現」が選ばれたと推測しています。

秀吉に「学んだ」家康が神号にまで考えが及んでいたのかどうか不明ですが、「<秀吉神>の敗北」ということが「俗説」であったとしても、結果的には、家康の、秀吉と同じようになったら困るという心配は避けられたということになるのかと。

さて「大権現」にとどまらず「神君」とも呼ばれたことについてです。

寛永五年(一六二八)の家康十三回忌についての記録に「皇考神君ノ十三周忌」とあり、寛文十年(一六七〇)完成の歴史書『本朝通鑑』でも見られ、五代将軍綱吉の時代に作成された書の中で、家康は「大神君」と記されている、などと紹介されています。

さらに曽根原さんは
「「神」はもちろん東照権現という神であり、一方「君」は通常天子を指す。家康を天皇と同格以上とみなしていたことが、呼称からもうかがえるのである」

としています。
「神君がナレーションとしてどうなのか」といった個人の感想とかの話ではなく、江戸時代の幕府と朝廷との関係、近世の「王権」について考えるうえでの手掛かりの一つでもあるという視点には、はっとさせられました。