2023.12.16
無着成恭(むちゃく・せいきょう)さんが今夏亡くなり、無着さんが長年回答者を務めたTBSラジオ「全国こども電話相談室」の元アナウンサーの方が先日、毎日新聞紙上で思い出を語っていました。無着さんには千葉のお寺の住職をされていた時に取材させていただいたことがあり、その時の記事の切り抜きが実家の資料の中から同じようなタイミングで見つかりました。これも何かのご縁かと。
1927年(昭和2)山形県の寺に生まれ、赴任した同県内の中学校で子どもたちが生活のありのままを作文に書く教育「生活綴方(つづりかた)」を実践。その生徒たちの詩や作文を収めた学級文集「山びこ学校」がベストセラーになりました。
その後、明星(みょうじょう)学園(東京)で教諭や教頭を務め、「全国こども電話相談室」の回答者を約30年続けました。1987年、千葉県香取郡にある福泉寺の住職になり、大分県国東市のお寺に移った後、また福泉寺に戻って暮らしていたそうです。
新聞切り抜きの日付を見ると1991年1月20日、東北地方向けの紙面で「ふるさと人」と題し、東北出身で今は東北を離れている著名人に故郷について語ってもらうという連載記事、東京本社の何人かの記者で分担して取材しました。そのお一人として山形出身の無着さんを千葉の福泉寺に訪ねたわけです。記事そのものを見ていただくのが簡単なのですが、著作権もあるし、また、今読み返しては拙い原稿ですので少しだけ引用しながら。
無着さんがわざわざ選んだ福泉寺は成田空港(当時は新東京国際空港という呼び方が一般的で記事にもそう書いてあります)のすぐ近く。このころはまだ、開港時のいきさつから空港への反対運動が続いていました。記事にはこうあります。
「周辺には「上空を飛ぶ飛行機の音で雲の様子が分かり、それで天気を占う」人たちが暮らしている。檀家の中には空港の拡張工事で自分の土地を手放したものかどうか悩む人もいる」
「あえて檀家が数十戸の寺を選んだ。「大きな寺は葬式と法事で毎日が過ぎていく」からで、各地から子供たちが寺を訪れ「無着先生」の話を聞き、座禅を組んで帰っていく」
さらっと書いてしまっているのですが、今思うと、成田空港のことを無着さんはどう考えていたのでしょうか、それがこのお寺を選んだこととどう関係するのか、そういう生々しい取材趣旨ではなかったと言ってしまえばそれまでですが、取材したこちらの問題意識が足りなかったですかね。
「へーっ」と思い、記事にした後もずっと忘れられないことがあります。山形県は県内の水がすべて最上川に集まると無着さんが話したことです。
もちろん最上川には支流はあるのですが、山形県域に降った雨はすべてが最終的には最上川に集まる、という言い方がわかりやすいかもしれません。一つの川が地域の生活のあり方や文化を、さらには県民性みたいなものまで形つくっていくということを無着さんは言いたかったのだろうと理解しました。そう「母なる川」みたいな。そういう視点もあるのだ、ということが新鮮でした。
後年、その最上川を船で川下りしたこともあり、山形県に行くたびにこの話を思い出します。
「(山形の)人々は山の向こうには何があるのだろうと思いながら暮らしてきた、という。それに比べて千葉は、海と二つの大河による県境に囲まれ、一年中青野菜がある」
山形の人に叱られてしまいそうですね。念のためですが「二つの大河」は利根川と江戸川です。めぐりあわせでしょうか、この後その千葉で3年間仕事をすることになります。
無着さんはお寺の生まれ、珍しい姓ですよね。そういえばと突然思い出しました。奈良・興福寺にある鎌倉時代の仏師・運慶の最高傑作の一つとされる「無著像」。インドで仏教教学を学び広めた兄弟の一人とされる彫刻(仏像)で国宝に指定され、日本史資料集などで目にしたこともあると思います(兄弟のもう一人は「世親像」)。年に何回か特別公開されるたびにお参りにいくようにしているのですが、都度その何とも言えない表情に心うたれます。
その「むちゃく」だ、ここに縁がある姓に違いないと嬉しくなったものの、よく確認したら、無着さんは「着」の字で「ちゃく」、興福寺は「無著」、「著」で「じゃく」(濁点がついている)、うーん、早とちりか、いやいや、仏教つながり、きっと何らかの理由があるに違いないと勝手に考えています。
奈良・興福寺のホームページで「無著像」が紹介されています。こちらから