2023.12.26
『古典と日本人 「古典的公共圏」の栄光と没落』で筆者の前田雅之さんがあげた「日本における古典の中の古典」は以下の通りです。
「えっ、どうして」と疑問を持ちませんか。私はけっこう驚きでした。
「いずれも文学書であり、しかも、いずれも和歌・漢詩句の集成および和歌を大量にもつ散文であった」
つまり、先に引用したように、「和漢」という二つの古典・古典語の間には価値の差異がないという日本だけが持つ特徴が表れている作品、ということになります。
④和漢朗詠集はちょっとなじみがないかもしれませんね。私もほとんど目にしたことはないです(つまり読んだこともない)
「『和漢朗詠集』は、『源氏物語』や『伊勢物語』に引用される多くの漢詩句の典拠であったばかりではなく、江戸末期に至るまで実に多くの写本が生まれ、江戸時代にはさまざまな形で版本となった。その数は、代表的なものだけでも五〇を超えるほどであった。実によく読まれた古典だったのである」
この四作品を古典の中の古典とする理由ですが、現代のベストセラーのように本が印刷された時代ではないので、何万部売れたとか読まれたとかで評価することはできません。
前田さんは「端的な理由」として以下のように書きます。
「最も多くの写本・版本が残り、四つの書物に関する注釈書が平安末期から江戸末期まで営々と作られ、パロディーや絵画資料を含めて大量の複製作品が生み出されてきたからである」
これは決して日本特有のことではないと、前田さんは別の言い方もしています。
「一般社会通念としての「古典」とは、歴史という長い時間の中で、他者の視線に耐え抜いた書物を指すことが支配的なのである」
「注釈や注釈書をもつ権威を有する書物が古典であったという明確な事実である。その点は、文明社会間の差異を超えて一切のぶれがない」
「『古今集』『源氏物語』『和漢朗詠集』、遅れて『伊勢物語』の注釈が始まったが、注釈が全面展開していくのは、鎌倉中期から南北朝時代を経て、室町期になってからである」
「それでは、鎌倉前期において起こった問題は何か。それは、古典本文の校訂等を受けて古典および和歌が公共圏として位置づけられていくことである」
校訂とは「一つの古典のいろいろの本をくらべて、正しい形をしめすこと」(三省堂国語辞典7版)、印刷できない以上、作品は人の手によって写されます。当然写し間違いが起きる、また、意図的に書き換えてしまうこともあるでしょう。
そのようないくつもの写本をくらべて、おそらくもともとはこうであったろうと整理するのが校訂、そして、わかりにくい部分に注釈(説明・解説)がつくと、より読みやすくなり理解が深まる。人気がある(読みたいという需要がある)から校訂をし、注釈がつけられる、それによっていっそう読みやすくなり、さらに読者が増える、という循環ですね。