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BLOG校長ブログ

2023.12.28

「古典を学ぶ」とは ④

この「古典を学ぶ」とは①で投げかけられた「古典を学ぶ価値や意味はあるのか」という問い。近代明治になって「古典的公共圏」が没落してしまった、そして迎えている現代。古典を学ぶ意義をどう考えたらいいのか。『古典と日本人』(光文社新書)の筆者、前田雅之さんは力説します。

「私たちは、生きた歴史に戻り、体験するために、改めて古典を読む必要があるのではないか。なぜならそこには時代時代の人たちが記した、言説としての生の歴史があるからである」
「古典語で記された古典によって、私たちは、言語的感性の連続性をおのが心身に身につけることができるのである」

「古典とははるか昔の出来事や物語を記したものであり、言ってみれば、現在の私たちにとって、明確な他者である。他者としての古典を背負っているのが私たちなのである。だが、古典は他者であるからこそ、現代の読者である私をも相対化しうる。(略)私の周囲にある他者、これから迫りつつある未来という他者に対して、古典という他者の目を通して、外界・未来を相対化しえたら、地に足がついたさらなる覚悟が生まれるのではあるまいか」

「古典・古典語をもつ国・地域に生まれ育った人間は、古典を<宿命>として背負っていくしかないのである」
「<宿命>を背負って、明るく未来に向かって生きる。古典とはそのような指針となり、他者としての友となってくれるありがたい存在なのである」

読み終わって、この著書をどうまとめようかと少し時間をおいていたら、思わぬ出会いがありました。

『箱根の坂』(司馬遼太郎、講談社文庫上中下巻、2004年新装版)

戦国時代の武将、北条早雲の一代記。1982~83年に新聞連載された長編時代小説です。まだ読んでいなかったかと手にとったのですが、文庫本中巻にこんなくだりがありました。

「この時代(室町時代後期)、教養には三つの柱があった。二つは「儒仏」である。しかし儒教と仏教だけでは一人前とはされず、「歌学」がことさらに重んじられた。歌学とは、日本語としての磨かれた詩藻、もしくはおのれの詩藻のみがきかたといっていい。詩藻の原典とされたのは、散文としては『源氏物語』、詩としては『古今』『新古今』の二つの歌集で、この三つに通じなければ一人前の士ではないとされた。このため、諸国の守護はその祖は草深い田舎武士であったが、あらそって歌学の師をまねいて『源氏』『古今・新古今』を学んだ」(詩藻=しそう=は詩歌や文章のこと)

細かい点やニュアンスは異なるものの、これって「古典的公共圏」の説明そのものですよね。もちろん学術的に説明しようとすると前田さんのような「定義」が必要とされるわけですが、司馬さんのこの表現でもいわんとするところは通じるわけです。

注意したいのは、司馬さんは「教養」の一つとしての古典、という言い方をしています。教養をどう定義するかというのは結構難しく、私自身も前田さんのこの著作を読みながら、つまり「教養だよね」と感じてはいました。

ただ、教養だから古典が大事だと言ってしまうのは簡単ですが、そもそも「教養」が冷ややかに受け止められる残念な時代になっている以上、「教養」を掲げても説得力がない、いちから説かないとダメなんだと、読後考え直しました。逆に、教養とは何かを考える手掛かりもなりますね。

4月からこのブログを書いてきて、歴史本をとりあげるに際してNHK大河ドラマをさんざんネタにさせていただきました。というか、大河ドラマに物言いたくて、本棚を探った、というのが正確かも。

で、はい、来年のNHK大河ドラマはなんと前田さんがいう「古典の中の古典」の一つ、『源氏物語』の作者、紫式部が主人公です

大河ドラマは毎年、関連本がたくさん出版されます。この前田さんの本『古典と日本人』の発行はほぼ1年前、「古典的公共圏」についての本を10年ほど前から出したいと願っていたと「おわりに」に書かれているので、大河ドラマを意識したわけではないでしょうし、源氏物語や紫式部について特段詳しく書いてあるわけではありません。

私自身も発行後比較的すぐに購入しましたが、「積ん読」になっていて、そうだ大河ドラマだと、あわてて読んだというのが正直なところ。というわけで、しっかり大河ドラマは意識しています。関連本も購入し始めています。

ということで来年につなげます。

年末まで読んでいただきありがとうございました。
よいお年をお迎えください。