2024.03.07
2024年の初めからしばらく(しつこく)京都のことを書きました。そのきっかけは、知らなかった京都という点で驚きがたくさんあった本『京都 未完の産業都市のゆくえ』(有賀健、新潮選書)との出会いでした。その内容を紹介しながら、「そういえば知らなかったという点ではこれもあったな」と思い出した別の一冊を読み返しました。そして先日、京の街を歩く機会があり、その本に出てくる場所を改めて訪ねてみました。
「占領」だけだと何のこと、ですかね、「1945-1952」が必要でしょう。
「アジア・太平洋戦争後、ポツダム宣言の受諾により日本列島は米軍を主力とする連合国軍の占領下に置かれた。占領期を一九四五年夏のポツダム宣言受諾と九月二日のミズーリ号艦上における降伏文書調印から五二年四月二八日のサンフランシスコ条約発効までとするなら、約七年の歳月である」
本の副題「1945-1952」はこの7年間をさします。京都も連合国軍の占領下にあったわけです。戦後の占領と聞くと首都東京にマッカーサー率いる連合国軍がやってきたことはよく知られていて、国内の主な都市にも連合国軍が進駐したことは知識としてはあったのですが、京都もそうだったとは恥ずかしながら京都で仕事をしていたころ、考えたことはありませんでした。
改めてページをめくりなおしてみます。
1945年9月25日に占領軍が京都駅前広場に姿を見せ占領が始まります。挿絵をみるとかつての京都駅ビルが写っています。烏丸口です、もちろん現在のあのすごい駅ビルからは想像できない光景です。
「進駐した第六軍第一軍団の司令部は四条烏丸の大建ビル、現在のCOCON KARASUMAに設置された」
「七〇年後の現在、建築家隈研吾による改修を経て京都のもっともファッショナブルなビルのひとつとなっている」
おお、ここでも隈研吾さん。施設のウエブサイトにビルの変遷が紹介されています。進駐軍に関しては特段の記述はないようです。
「占領軍のクルーガー司令官は最初、東山にあった都ホテル(現・ウェスティン都ホテル京都)に滞在したが、やがて烏丸丸太町の交差点北西にある大丸社長宅、通称下村ハウスまたは大丸ヴィラが司令官宿舎となった」
格式からいっても司令官はトップクラスのホテルだったここか。では将校やその家族はどこで暮らしたのか、ということです。
「占領軍の将校家族用の宿舎は植物園に建設され、植物園が京都における「アメリカ村」といった空間になる」
「京都駅から植物園までひきのばされた南北の動線1を、占領軍の行政ラインと呼ぶことができるであろう。じっさい住民たちは、烏丸通にはいつもジープが走っていた、と覚えている」
「えーっ、植物園」ですよね。現在の京都府立植物園ですね。京都府立植物園のウエブサイト「京都府立植物園の沿革」には以下のようにあります。
「戦後は、昭和21年(1946)から12年間連合軍に接収されました。このとき多くの樹木が伐採されるなど苦難の時代が続きましたが、昭和36年(1961)4月、憩いの場、教養の場としてその姿を一新し、再び公開しました」
京都府立植物園のウエブサイト「京都府立植物園の沿革」はこちらから
大丸ヴィラは京都市登録有形文化財に登録され、「史跡」あるいは京都の代表的な建築として紹介されています。
こちらから(上京区のウエブサイトから)
大丸ヴィラの建物写真を撮ろうとしたのですが高い塀と高い門があって歩道からは屋根くらいしか見えません。ネットで検索してみると、時々一般公開されていて建築関係のウエブサイトなどで建物や室内の写真などが多数紹介されています。区のウエブサイトでの紹介文には占領軍関連の記述はありません。
すぐ近くには京都府庁、京都府警察本部があり、かつては毎日のようにこの建物の前を通っていたのですが、気にもしなかったし、ましてや占領軍うんぬんなど、まったく知りませんでした。