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BLOG校長ブログ

2024.01.31

法隆寺と聖徳太子 ④ そして現代まで

「聖徳太子はいなかった、架空の人物である」との説を展開した『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館、1999年)ですが、筆者の大山誠一さんが「多くの方のご批判を受けることであろう」と書くように、そのまま広く受け入れられたわけではありません。『法隆寺と聖徳太子』(東野治之)だけでなく、大山さんの本の後に発刊された別の著作もとりあげます。

『聖徳太子の歴史学 記憶と創造の一四〇〇年』(新川登亀男、講談社選書メチエ、2007年)

「貴方は、聖徳太子がいたと思いますか。それとも、いなかったと思いますか」
こんな質問を受けることがあると書き出し
「この質問は、言うまでもなく、最近の「聖徳太子はいなかった」説を踏まえたものであり、まるで踏み絵のように差し出されてくる。歴史への関心の多くが、このような事実探しにあること、そして、やはり、「聖徳太子」がそれに値する存在であることをあらためて思い知らされる」

と続けます。大山さんの名前や著作名は出てきません。まとめにあたる「終章」ではこんな表現で出てきます。

「二〇世紀末には、「専門学者」による「聖徳太子はいなかった」説が登場してくる。これはセンセーショナルな新説として、各方面から注目の的になった」

前後の文脈があるので微妙な書き方ではありますが「センセーショナル」とか「各方面」とかの言葉つかいがちょっとひっかかりはします。
「法隆寺と聖徳太子 ③」(1月30日)で『<聖徳太子>の誕生』を読んだとき、私自身も衝撃を受けた、と書きましたが、まさに「センセーショナル」に巻き込まれたわけですね。 

さて新川さんの著作です。

「現在の私たちが記憶している「聖徳太子」は、『日本書紀』にその原像(事実とはかぎらない)の大半がある。それは、小学校以来、くりかえし学習する「聖徳太子」でもあろう。逆にいえば、この『日本書紀』の「聖徳太子」から自由になることは容易でないのである。

慎重な言い回しですね。新川さんは「信仰と事実の区別は容易ではない」との前提で、大山さんが言うところの「長い聖徳太子信仰の重み」を解き明かそうとします。太子の死後から中世、そして近代まで、聖徳太子が信仰の対象としてどう位置付けられ変わってきたのか、それによって形作られた聖徳太子像を描きだします。

印象的なのは、それが近代、さらには現代にまで続いているとの指摘です。

西洋に追いつけ追い越せの明治時代、欧米の列強と並ぶために必要な憲法制定ですが「日本には古くは憲法十七条があるではないか」、木造建築では世界最古級の法隆寺もある、「けっして西洋に後れをとっていない、欧米に負けていない」ということを主張したい人たちによって聖徳太子像がつくられていった、というように読めました。そして現代へ。

「聖徳太子」における中国との「対等」外交、憲法十七条の「和」の精神、「大化の改新」を準備した「新しい政治」「ゆるんだ政治の立て直し」、そして「調和の美」と木造建築の「最古」を示す法隆寺などは、少なくとも用語レベルにおいて、あるいは模様替えしたコンテクストのもとで、すべて戦後へと受け継がれている。むしろ、国民的教養・知識となった。

21世紀になってから開かれた、聖徳太子関連のある展覧会をとりあげ新川さんはこう紹介しています。

戦後憲法の精神である「戦争」放棄と「平和」希求、そして「和」の精神が「聖徳太子」に仮託されていた

もちろん「和」が大事だということに異論をはさみようはないわけですが、それを千年以上も前から提唱していた政治家(太子)がいた、すばらしいことだという「自賛」につなげる、あるいは中国(大陸)と「対等」外交を実行した政治家がいたという点で現代の外交を批判する、そういった思惑に聖徳太子が結び付けられ、聖徳太子像が維持されていくーーそこまで深読みするかといわれそうですが、どうでしょうか。

いずれにしても、研究が進むことで人物像が書き換えられていく、これは避けられないことであり、そもそも歴史研究者・歴史家の役割でもあります。聖徳太子もその例外ではない、ということでしょう。まとめとしては、ちょっと陳腐ですかね。