2024.02.02
著名なお寺である法隆寺についての論文など学術的な考察はたくさんあると思いますが、私のような「本を読むことが楽しい」レベルでどうこう言えるものでもないでしょう。ただ、これまで読んだ中で、法隆寺ならこれはとりあげないわけにはいかないと思います。またかと言われそうですが井上章一さん(国際日本文化研究センター所長)です。約30年前、井上さん初期の論考です(発刊時は同センター助教授となっています)。
隈研吾さんが『日本の建築』(岩波新書)のなかで「珍説」と書いたエンタシス説についてです。井上さんも当然、触れています。
「法隆寺にある丸柱は、はるか西方のギリシアにルーツがある。なかほどがふくらんだエンタシスの形状は、ギリシア神殿の建築様式に由来する。日本には、飛鳥時代の昔から、西方ヘレニズムの文化がとどいていた」
「私が、こう教わったのは、中学生のときである。凡庸な反応ではあるが、やはり感心させられた。そんな古いころから、文化の伝播はあったのか。歴史って、おもしろいもんだなと、ひきつけられたことをおぼえている」
「大学の建築史では、この話をいっさいおしえないのである。建築史の授業も、建築史の教科書も、エンタシス伝来説には、まったく言及しなかった」
「あるとき、ひとりの博学な先輩に、その理由をたずねたことがある。すると、こんな返事がかえってきた。
「お前、いまだにあんな話を信じとるんか。あほやなあ。あんなもん、ウソにきまってるやないか。あれは、お話、子供むきのお話や」」
(隈研吾さんは『日本の建築』で「ギリシャ」と表記、井上さんは「ギリシア」と書いています。キーボードうち間違い、変換ミスではありません)
京ことばでしょうか、井上さんの思い出と先輩とのやりとりが面白かったので長く引用しました。もちろん、井上さんはこの先輩が言ったから「そうなんですか」では終わらずに調べ、著作にしたわけです。
「法隆寺とギリシアは、エンタシスでつながっていてほしい。私は、そんな希望をもっていた。では、いったいどこの誰が、私の脳裏にそんな思いをすりこんでいったのか。その洗脳を可能にした文化的背景に、興味がわいてくる」
「私はこの本で、法隆寺論の歴史的な変化を追いかけた。法隆寺を語る、その語り方がうつりかわっていく過程を、追跡した」
「法隆寺そのものに興味があったわけではない。法隆寺を語り論じたひとびとの脳裏には、どのような観念があったのか。そして、その観念は、時代とともにどういった変容をとげたのか。私はそういう精神史に、関心をよせていた。『法隆寺への精神史』と題したのも、そのためである」
法隆寺の歴史を語るのではなく、人々が法隆寺をどうとらえてきたのか、その移り変わりを探る、井上さんの『つくられた桂離宮神話』(1986年)も同じような切り口です。井上さんがこんなふうに書いています。
「『つくられた桂離宮神話』は、批評にまつわる言論の、その様式史をさぐった仕事である。桂離宮解釈は、時代とともに、どううつりかわってきたか。また、なぜ、そのように変化をとげてきたのか。以上のようなことを、さぐっている」
「一九九四(平成六)年には、『法隆寺への精神史』を上梓した。現在は、安土城に関する本を執筆しているところである。いずれも、法隆寺や安土城そのものを論じる研究ではない。それらの建築にまつわる言及が、時代によってねじまげられていく様子を、えがいてきた。基本的には、同じパターンの探求が、テーマだけかえながら、つづいている」
(『つくられた桂離宮神話』学術文庫版あとがき。再録した『学問をしばるもの』より引用)