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BLOG校長ブログ

2024.02.05

法隆寺はどう研究されてきたか ③

さて、法隆寺についてこの本をとりあげないわけにはいかないと書いた、井上章一さんの『法隆寺への精神史』(弘文堂、1994年)です。当然のことながら伊東忠太をとりあげています。

「いっぱんに、伊東忠太は、日本建築史学の開拓者として知られる。東京帝大で本格的に建築史を研究しだしたのは、伊東だということになっている。法隆寺の研究についても同様に、パイオニアあつかいされている。「法隆寺の発見者」などとさえ、しばしばいわれているのである」
「法隆寺のふくらんだ柱に、ギリシアの影響を読みとる、これも一般的には、伊東の創見だとされている」

伊東忠太について隈研吾さんは「反逆者」、井上章一さんは「開拓者」さらには「パイオニア」、もちろん意味は異なりますが、型破りというか一筋縄ではいかない、なかなかの人物なのだろうと感じさせる表現ですね。

そしてX(旧ツイッター)で東京大学が伝える「伊東忠太が1893年に発表した「法隆寺建築論」」ですが、井上さんの著書から引きます。

「伊東は、「法隆寺建築論」と題した論文を、学会誌である「建築雑誌」に発表した。そして、このなかで、ギリシアのエンタシスが大和の法隆寺につたわったと主張している」

なるほど。しかし井上さんは続けます。

「にもかかわらず、あえて書く。エンタシス=ギリシア伝来説を、伊東の創見でかたづけてしまうのは正確でない、と」
「おおざっぱな表現になるが、それは時代の産物でもあった。一九世紀末になら、とうぜんひねりだされるであろうはずの着想だったのである」

さらには

「ギリシアと日本のあいだには、「東西交渉」があった。そのために、法隆寺にもエンタシスができたという」
「「東西交渉」の経過をしめす証拠は、なにもない。ただ、法隆寺の柱と「希臘の所謂エンタシス」が、同じ形になっているというだけである。そこから伊東は、「歴史的眼孔」によって、ギリシア文明の伝播を読みとった。まあ、思いついたということだろう」

いやいや手厳しい、「思いつき」です。隈研吾さんは「伊東は何の具体的根拠を示さずに突如、このエンタシス説を発表した」と書いていましたが、井上さんはよりストレートです。

余談ではありますが

井上さんは、『つくられた桂離宮神話』(1986年)、この『法隆寺への精神史』(1994年)について「同じパターンの探求」などなかば自虐的な言い方をしていますが、従来にない視点、切り口がが高く評価されました。このような著作をまとめるのには、過去に発表された膨大な資料(著作、論文、雑誌など)を探し集め読み込まなくてはなりません。

かなり以前のことですが、都内の国立国会図書館で井上さんをお見かけしたことがあります。京都で取材させていただいたことがあったので気づいたのですが、閲覧受付で次から次へと本を出してもらって(一度に書架から出してもらう冊数が限られていました)、内容をチェックしながら必要なところをどんどんコピーしていました。

今のようにデータベースにアクセスしてキーワードを打ち込み、本や雑誌を検索するという時代ではありません。図書カードを1枚1枚めくって、自分のテーマにあっていそうな本や雑誌、論文をかたっぱしからチェックするしか方法がなかったはずです。

井上さんの研究拠点は京都にある国際日本文化センターです。あたり前かもしれませんが、東京に出てきて(あるいは都内での仕事の合間に)ああこういう地道な努力をするんだと、いたく感心したことをおぼえています。