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BLOG校長ブログ

2024.02.07

法隆寺はどう研究されてきたか ④ 伊東忠太旅に出る

『法隆寺への精神史』で筆者の井上章一さんはエンタシスの問題にとどまらず、法隆寺の伽藍(建物の配置)についても言及します。対称(シンメトリー)が特徴的な西欧建築と比べて法隆寺の伽藍は非対称になっていることを指摘するなど、この著作は実に奥が深いのですが、ここではエンタシス=ギリシア伝来説がその後どうなったかにとどめます。

「法隆寺に、ギリシア建築からの影響を見る。これは、古代の日本に、ギリシア文明の感化を読みとることでもある。だが、こんな見方をおもしろがる感受性が、江戸時代より前にあったとは思いにくい。やはり、明治以降になってから、近代がもたらした感覚のひとつであろう。そして、それは今日、学界ではともかくとして、ひろく一般読書人にまで普及している」

「エンタシス=ギリシア伝来説の真偽そのものは、不明である。現在では、わからないというしかない。これを問題にしても、徒労におわってしまいかねないことになる」

「学界ではともかくとして」という表現でだいたいわかりますよね。聖徳太子はどういう人物であったのかについての歴史家・研究者のとらえ方と、信仰を通じて人々が抱く太子の人物像とのギャップと似たような状態であるようにも感じられます。

井上さんのさまざまな指摘の中でここは押さえておきたいという点があります。隈研吾さんと同様、井上さんも和辻哲郎の名をあげます。

「和辻哲郎。一九一〇年代から二〇世紀のなかばにかけて、活躍した倫理学者である。日本文化史に関する著述でも、よく知られている」
「その和辻に、『古寺巡礼』(一九一九、大正八年)という著書がある。(略)和辻はこの本で、大和の古美術を、芸術的な鑑賞眼で情熱的に語っている」

「『古寺巡礼』の特徴は、大和の古美術とギリシア古典の類似をうたいあげたところにある」
「だが、とにかくこの『古寺巡礼』という本は、よく売れた。現在でも、岩波文庫に収録され、読みつがれている。奈良の寺々を鑑賞するさいの、古典的な書物になりおおせているといってよい」

井上さんがいうところの「学界はともかくとして、ひろく一般読書人にまで普及している」原動力の一つが和辻のこの本、ということでしょう。

「奈良の寺々を鑑賞するさいの、古典的な書物」とされています、はい、私も何度も読み返しています。同じような「古典」としては、『大和古寺風物詩』(亀井勝一郎、新潮文庫など)が知られていますよね。1953年刊行なので『古寺巡礼』よりはかなり後ですが。

さて、とうの伊東忠太は「法隆寺建築論」発表のあとどうしたのか、ということです。

隈さんはこう書きます。
「(伊東とタウトは)日本とギリシャをつなぐ中間項を探る旅にでた。伊東は、留学先はヨーロッパしか認めないという当時の明治政府の方針に反して、中国、インド、トルコへと旅し、さらにアジアへの調査旅行を敢行した」

では伊東はその旅で何を見てきたのか、その跡を丹念にたどった研究本があります。

『明治の建築家 伊東忠太 オスマン帝国をゆく』(ジラルデッリ青木美由紀、ウェッジ、2016年2刷)

トルコ・イスタンブルで研究生活を送る筆者が現地の資料をもとに、伊東の旅を「再現」します。伊東という人物について

「明治時代、建築を研究するためだけに世界を一周した、酔狂な男」

おおっ、「反逆者」(隈研吾さん)「開拓者」(井上章一さん)に続いてここでは「酔狂な男」です。