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BLOG校長ブログ

2024.02.08

法隆寺はどう研究されてきたか ⑤ 伊東忠太がギリシャで見たもの

西欧への留学しか認めないという明治政府に逆らってまで、日本に西欧の影響が及んだあとを見つけようと中国、インド、トルコに調査旅行に出かけた伊東忠太。その足跡を追った『明治の建築家 伊藤忠太 オスマン帝国をゆく』(ジラルデッリ青木美由紀)を読んでみましょう。

「忠太が東京帝国大学の助教授となった一八九九(明治三十二)年当時、教授昇進には三年間の欧米留学が不文律だった。日本文学や漢文学の分野でさえ、欧米に留学しなければ教授になれなかった時代。しかし打診されたときに、忠太が懇望したのは、西洋ではなく、東洋への留学だった」

伊東忠太の「東洋への留学」のいきさつを押さえたうえで、筆者の青木さんは続けます。

「法隆寺建築の源流はギリシャだ!」という自説を証明するため、単身乗り出した世界旅行の途上、八ヶ月半を過ごしたオスマン帝国で、何度も挫けそうになりながらも、明治の建築家が獲得しようとしたもの。それは、激動の政治状況のなかで、急務として確立を迫られた、当時の日本人としての世界観であり、それに基づいた建築観だったのではないか」

青木さんの伊東への熱い思い、この著作を生んだ動機がうかがわれます。

さて青木さんも当然、伊東忠太の論文「法隆寺建築論」に触れます。法隆寺にギリシャの影響が見られる、その証拠として忠太があげたのが「柱の仕様、また「唐草」とよばれる装飾文様」と紹介します。そうこの「柱の仕様」が「エンタシス」です。

「忠太は、ギリシャ、というよりもエトルスクの神殿に注目し、これを法隆寺と比較した。だが、意気揚々と掲げられたこの説は、その後批判にあい、改稿されて、最終稿までにこの「法隆寺エトルスク説」はほとんど鳴りをひそめることになる」

なるほど、それでも忠太は「ギリシャ」にこだわった。エンタシスだけではない、ということだったようです。忠太はギリシャの影響がトルコ、インド、中国を経て日本に及んだとの考えは変えず、留学調査旅行の行先としてトルコなどを選びました。

なお、ここで「エトルスク」とありますが、井上さんの『法隆寺への精神史』では「エトラスカン寺院」と書かれています。原典までは確認できないので、青木本は表記のままとします。同書の注釈によると「エトルスク」は「現在のイタリア北西部に展開したギリシャ文明」とあります。

忠太の許可された留学先は「中国、インド、トルコ」ですが、その留学期間を終えてトルコからギリシャに足を伸ばします。

「アテネの古代ギリシャ建築を、忠太はどう見ただろう」

青木さんが読者を引き込みます。神殿などを歩いてみた詳細なメモや図面が残っているそうです。いよいよ佳境に入ります。

「エンタシスは建築にとって普遍である。これがはるばるアテネで忠太がたどりついた結論だった」

えっ、ですよね。「普遍」ってことは、どこにでもあるということですよね、一般的には。

「エンタシスを普遍と看做すことはそのまま、法隆寺をギリシャに繋ぐ、論拠のひとつを放棄することになる。その意味ではこの結論は、エンタシスとの決別とも言えるだろう」

「エンタシスとの決別は、「東洋建築」が、西洋建築の常套の柱の研究では語れないという見極めに繋がった、といえば穿ち過ぎだろうか。エンタシスは普遍、との結論によって、忠太はいわば足枷から解放される。関心は、西洋と東洋の重層的な境界、という独特の発想へと転換するのだ」

伊東忠太が論文で示した意見がおおよそ否定されたかといって伊東の業績が全否定されるわけではありません。どのような研究分野においてもしばしばあることですよね。いわば、伊東は自分の説を検証して謙虚に見直したという見方もできるでしょう。その結果、さらに研究の幅を広げ、深めることにつながったといったところか。

青木さんの伊東への眼差しはあたたかいですね。