2024.02.13
かつての奈良(大和路)を歩いた紀行として長く読み継がれてきた和辻哲郎、亀井勝一郎の本を紹介しましたが、では作家はということで、これなどはどうでしょう。
新潮文庫なので新潮社のホームページから堀辰雄のプロフィールを。
堀辰雄(1904-1953) 東京生れ。東大国文科卒。一高在学中より室生犀星、芥川龍之介の知遇を得る。1930年、芥川の死に対するショックから生と死と愛をテーマにした『聖家族』を発表し、1934年の『美しい村』、1938年『風立ちぬ』で作家としての地位を確立する。『恢復期』『燃ゆる頬』『麦藁帽子』『旅の絵』『物語の女』『菜穂子』等、フランス文学の伝統をつぐ小説を著す一方で、『かげろふの日記』『大和路・信濃路』等、古典的な日本の美の姿を描き出した。
この文庫本は、堀辰雄のエッセイと小品がいくつか集められている作品集です。解説によると、堀辰雄は1937年(昭和12)に初めて奈良県(大和)に旅をし、3度目の旅となる1941年、旅先から妻宛に書き綴った手紙をもとにして加筆したものが『大和路』の中の一編『十月』となり、その後も大和路を訪れて小品を書いたとのこと。(手紙という形で書いたのかもしれませんね)
その『十月』にこんなくだりがありました。
「いま、唐招提寺の松林のなかで、これを書いている。(略)いま、秋の日が一ぱい金堂や講堂にあたって、屋根瓦の上にも、丹の褪めかかった古い円柱にも、松の木の影が鮮やかに映っていた。それがたえず風にそよいでいる工合は、いうにいわれない爽やかさだ。此処こそは私たちのギリシアだ」(ちなみに工合は具合のことでしょう。原文のままです)
ギリシャが出てきます、そして古い円柱にも注意してください。この唐招提寺について別のところでもふれています。
「僕はきょうはもうこの位にして、此処を立ち去ろうと思いながら、最後にちょっとだけ人間の気まぐれを許して貰うように、円柱の一つに近づいて手で撫でながら、その太い柱の真んなかのエンタシスの工合を自分の手のうちにしみじみと味わおうとした。僕はそのときふとその手を休めて、じっと一つところにそれを押しつけた。僕は異様に心が躍った。そうやってみていると、夕冷えのなかに、その柱だけがまだ温かい。ほんのりと温かい。その太い柱の深部に滲しみ込こんだ日の光の温かみがまだ消えやらずに残っているらしい。」
「太い柱の真んなかのエンタシスの工合」とでてきます。でも、法隆寺でなくて唐招提寺です。
そういえばと思い出し、あわてて『法隆寺への精神史』(井上章一)をめくりました。ありました、ありました。
著名な歴史家、林屋辰三郎(1914~1998)の中学校時代の授業の思い出を林屋へのインタビュー記録から引用しています。
「唐招提寺の柱のエンタシスという膨らんだ箇所を、ギリシャの神殿建築と対比して説明していただいてね」
これに対して井上さん
「唐招提寺のエンタシスは、じっさいにはほとんどめだたない。おそらく、これは法隆寺のまちがいだろう。唐招提寺にギリシャを投影する場合は、金堂前部の列柱をことあげするのがふつうである」
『明治の建築家 伊藤忠太 オスマン帝国をゆく』で筆者のジラルデッリ青木美由紀さんが、伊東忠太がギリシャでたどりついた結論として書いた「エンタシスは建築にとって普遍である」と書いていました。エンタシスを「柱のふくらみ」と定義すれば法隆寺にもある、唐招提寺にもある、それなら「普遍」といわれてもおかしくない。それがギリシャと結びつくかどうかは別問題ということですね。
ただ、エンタシスをギリシャと結びつけることは「時代の産物でもあった」と井上章一さんが指摘していました。和辻哲郎の著作などを通じて多くの人がそういうものだと思っていた、中学生の林屋さんに話した先生も堀辰雄もその例外ではなかった、ということなのでしょう。
『大和路・信濃路』の新潮文庫ですが奥付けの「1955年発行、2004年58刷改版」をみてたまげました。超ロングセラーですね。この作品、インターネット上の「青空文庫」で全文読むことができます。無料です。「青空文庫」についてサイトではこう説明されています。
青空文庫は、誰にでもアクセスできる自由な電子本を、図書館のようにインターネット上に集めようとする活動です。著作権の消滅した作品と、「自由に読んでもらってかまわない」とされたものを、テキストとXHTML(一部はHTML)形式に電子化した上で揃えています。
ということなので、基本的にはボランティアの方々が作業をしてくれています。すばらしいことですね、ありがとうございます。
唐招提寺。正面の建物が「金堂」です。堀辰雄は「いい秋日和」と書いています。うっすらと紅葉しています。堀辰雄もこんな景色をみたのでしょうか