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BLOG校長ブログ

2024.02.15

紙幣の聖徳太子 ② 皇太子の摂政就任の時期にお目見え

戦前戦後を通じて紙幣(日本銀行券)に一番多く登場したのが聖徳太子、その時代背景、理由などはやはり歴史研究のテーマとなります。

『貨幣の日本史』(東野治之、朝日選書、1997年発刊、2004年3刷)

再び東野さんに登場していただきます。富本銭、和同開珎から貨幣の歴史について綴っていますが、近代明治の紙幣発行については国産化・肖像画デザインのためにイタリアからお雇い外国人としてキョッソーネが招かれたことなどを紹介します。そして

「大蔵省印刷局(紙幣寮の後身)は、紙幣に入れるにふさわしい人物を七人選び、閣議決定を経て、天皇の裁可を受けた」

として日本武尊、武内宿禰、藤原鎌足、聖徳太子、和気清麻呂、坂上田村麻呂、菅原道真をあげています。

「いずれも国家に勲功や業績があって、人々の尊敬を受けている、というのがその理由である」

このうち日本武尊、聖徳太子、坂上田村麻呂を除く4人がまず登場し、聖徳太子は1930年(昭和5)に初めて使われることになります。(日本銀行のウエブサイトの一覧をみると坂上田村麻呂は結局使われなかったようです)

『聖徳太子の歴史学 記憶と創造の一四〇〇年』(新川登亀男、講談社選書メチエ、2007年)

このブログの「法隆寺と聖徳太子 ④ そして現代まで」(1月31日)で一度、とりあげた本です。聖徳太子の肖像が最初に使われた「乙百円券」の発行が始まった時期に注目します。

「その紙幣肖像は、東京帝国大学教授で聖徳太子奉賛会理事の黒板勝美(一八七四~一九四六年)の意見により、摂政にふさわしく、かつ明治天皇に似せて考案されたという」

「裕仁皇太子(のち昭和天皇)が摂政に就いたのも、ちょうど、この事業年であった。皇太子は、時に二〇歳であるから、偶然であったとも言えるが、「聖徳太子」の摂政就任も二〇歳であったと言われていた。やはり、単なる偶然の一致とは思えない」

ここでいう「事業年」とは1921年(大正10)の「聖徳太子」千三百年遠忌事業のこと。聖徳太子が亡くなったとされる年から1300年後という区切り(遠忌)に皇族や政治家、歴史家らが太子を讃える集まり「聖徳太子奉賛会」をつくり、さまざまな行事を展開しました。それらが近代の新しい聖徳太子像が作られるきっかけ、原動力になったと多くの研究者が指摘しているようです。

大正天皇が病気で天皇としての仕事ができなくなったために裕仁皇太子が摂政につくことになります。日本史で教わる関白・摂政の、あの摂政です。天皇が幼少のときなど、天皇に代わってその仕事をするのが摂政、古代の藤原氏をすぐに思い浮かべますが、近代になって復活するわけです。

藤原氏は天皇家・皇族ではないので、裕仁皇太子が摂政になるにあたって、日本書紀では皇太子で摂政とされた聖徳太子が模範、モデルとされたとの見立てです。聖徳太子を讃える動きが近代の聖徳太子像を作り、摂政裕仁皇太子と重なるような形で国家の象徴ともいえる紙幣に太子の肖像が使われることになったと研究者は考えているわけです。

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いずれも戦後発行された紙幣ですが、聖徳太子の肖像が一万円、五千円、千円、百円の紙幣で使われています(日本銀行のウエブサイトの教材用データからダウンロードしました)