2024.02.16
この法隆寺と聖徳太子についての項のきっかけの一つが東野治之さんの『法隆寺と聖徳太子』(岩波書店)でしたが、その東野さんに『昭和の紙幣と法隆寺・正倉院の文化財』という論文があります(『文化財学報』第三十集に収録。奈良大学文学部文化財学科刊、2012年)
1930年(昭和5)に発行された日本銀行の兌換券(紙幣)の百円と拾円(十円)のうち百円に聖徳太子の肖像が初めて使われ、正倉院宝物や法隆寺の宝物などもデザインに取り入れられていることを紹介しています。その際参考にされた図案は何だったのか、どのような出版物なのかを推定する論文です。
「国家の威信が懸かる紙幣に、その国家が世界に誇るに足ると認識した文化遺産が採用されるのは極めて自然である。もっとも、そういう意向が働いたところで、実際に図案化されるには、その材料が手に入る形になっていなければならない」
東野さんが意図したかはわかりませんが、日本銀行のウエブサイトいうところの「聖徳太子像がこれだけ多くの日本銀行券に採用された理由」の一つ「肖像を描くためのしっかりした材料があること」の検証にもなっています。
紙幣になぜ聖徳太子なのかという点について、東野さんもやはり次のように書いています。
「聖徳太子は紙幣肖像として初登場であったが、その背後で、大正年間の太子顕彰の動きや裕仁皇太子摂政という政情が影響したらしい」
その聖徳太子の肖像の紙幣は戦後も作られました。日本銀行のウエブサイトの通り戦前、戦後を通じて紙幣に登場するのは聖徳太子だけ、戦後、占領軍(GHQ)が反対したうんぬんと出てきますが、東野さんの考察を見てみましょう。
「敗戦後まで続いた聖徳太子の紙幣の特色は、そのデザインが、占領軍による紙幣図案の一新後も継続したことである。他の紙幣の図案はいずれも軍国主義的色彩を持つものとして、使用が許されてなかった」
ここは日本銀行の説明と一緒です。続いて
「百円紙幣(聖徳太子の肖像)の図案が継続したことに関しては、多分に生産上の便宜もあったかとは思われるが、聖徳太子の人物像が読み替え可能であり、敗戦後にもふさわしいと評価されたことも作用したと考えられる」
「生産上の便宜」とは、戦後の混乱期で肖像のデザインを新しくする時間的余裕がなかったということでしょうか。聖徳太子の人物像の何をどう読み替えたのか、日銀総裁が「軍国主義者どころか平和主義者の代表である」と言ったかどうかはさておき、「平和国家」「文化国家」として新しい国をつくっていこうという戦後日本が聖徳太子の多面的な人物像の中から「文化」を見出した、といったあたりでしょうかね。
さて、聖徳太子と紙幣という話で今回初めて知ったのは、太子ゆかりの寺・法隆寺が幕末に独自の紙幣を発行していたということです。東野治之さんの『法隆寺と聖徳太子』の中に「幕末の法隆寺とその紙幣」の一編があります。
「法隆寺に関係する紙幣といえば、昭和に発行された聖徳太子肖像入りの高額札が、ゆかりの各種文化財を図案に取り込んでいて有名であるが、幕末に法隆寺そのものが発行した紙幣のあることは、一般にはほとんど知られていない。それには大きく分けて二種あり、いずれも法隆寺の子院である阿弥陀院と中院から発行されている」
はい、確かに知りませんでした。
「このような紙幣は、大名の発行した藩札や大商人の発行した私札などと同類で、十八世紀以来、主に西日本を中心に各地域で発行され流通していた」
江戸時代も後半になって物流が活発になるにつれて、その取引にお金が必要になってくるわけですが、西日本で主に使われていた「銀」の代わりにお札が発行されたという説明です。もちろん信用できるところが作ったお札でなければ安心して使えません。そして近代になればお札を発行するのが政府であり日本銀行となるわけですが、江戸時代にはいろいろなお札が使われていた、その一つに法隆寺が作ったお札があった、とのこと。
そのお札の写真も掲載されていますが、さすがに聖徳太子の肖像とか、法隆寺の建物とか文化財の図案などは印刷されておらず、金額や発行元などが書かれているだけです。法隆寺内にあった東照宮などの修理費用を調達するために発行されたと東野さんは述べています。