2024.02.21
さて、五十嵐太郎さん(東北大学教授)が本校見学で来校、校舎建築などを評する際にポストモダンとあわせて使った用語「キッチュ」です。ドイツ語ですが国語辞典でも採録されています。
「俗悪な<まがいもの/ようす>。俗悪なものをうまく生かした芸術やファッション。また、そのようす」(『三省堂国語辞典 第7版』)
①俗悪なこと。悪趣味。
②本来の目的からはなれた使い方(・とりあわせ)をすること。
③一般常識を疑ったり反体制的なスタイルであったりで、かっこいいこと。
(『現代新国語辞典 第六版』(三省堂、2019年)
少し詳しい説明はこちら
①まがいもの。悪趣味で俗悪なもの
②(①から転じて)悪趣味で俗悪になりそうなところを逆に、個性や魅力として感じさせる。また、そのもの。
<語の発祥>①が本来の意味。ブルジョア黄金時代のミュンヘンで、百貨店で売られるような悪趣味な工芸品を指すことばとして用いられた。②は、大衆文化の発達とともに、美と醜の二極におさまらない、人間と物との関係を指す概念に変化した意味。大衆が消費社会の中で、他人との小さな差異を求めて行動する生活態度と結びついている。(『表現読解 国語辞典』ベネッセ、2018年初版第16刷)
もともとは批判的な意味だったものがいい評価にも使われるようになった言葉のようです。建築史家の井上章一さんは本校開校直後に見学して評した文章のなかでこんなふうにも書いています。
「日本人の目で見れば、ほんらいの倉の腰をいろどるべきなまこ壁が上部にあしらわれているところなど、ちょっとあきれてしまう。池にかかる橋なども、どうかと思わざるをえない。悪口ついでにあえて言ってしまえば、フジヤマ・ゲイシャ風を好む外人の日本趣味が感じられる。擬和風建築といったところだろうか」
「建築家たちのプロ意識からすれば、この学園はゲテモノであろう」
「ゲテモノ」は手厳しいですが、五十嵐さんが使った「キッチュ」もこういう意味合いなのか。
実は、東北大学の方が見学を希望されているというオファーに五十嵐さんの名前が入っていて、聞き覚えがあったので調べました。『新宗教と巨大建築 増補新版』(青土社、2022年)の筆者で同年にこの本は読んでいました。どころか書棚探っていたら『新宗教と巨大建築』(講談社現代新書、2001年)もあって、こちらは読んだ日付は書きこまれてなかったのですが、あちこちにマーカーがひかれていました。五十嵐さんご自身の解説によると、新宗教と建築に関する研究は博士論文からの取り組みで、2022年の増補新版が3度目の書籍化なのだそうです。
この本の内容は、あまり類似の研究がないこともあって大変興味深いのですが、さすがに学校建築や今回のテーマに直接参考になるところはありませんでした。それでもページをめくっていくと、こんな記述がありました。
「ル・コルビュジエの作品はすぐれているというようなデザインの視点だけから見れば、天理教や大本教にしても、正統な建築史には入らないだろう。基本的にはキッチュなもの、大衆的な俗悪なデザインと考えられており、ネガティブな評価になる」
「ポストモダンの建築論では、商業施設こそが、人と建築の新しいコミュニケーションの可能性を切り開くという反転を提示したが、今でもキッチュなものは、一段低く見られる。しかし、逆にゴシックもキッチュだったのではないのかという切り返しも可能だ」
宗教施設の建築についての五十嵐さんの評価には立ち入りませんが、五十嵐さんのここでの「キッチュ」という言葉の使い方です。「俗悪」という言い換えもされており、辞書がまずあげる否定的なニュアンスではあります。一方で後段のゴシックもキッチュだったというあたりに、キッチュを全否定しているわけではなさそうにも読んだのですが、いかがでしょう。五十嵐さんは本校建築についてこう書いてくれていることですし、都合のいい解釈でしょうか。
完成時はポストモダン・キッチュとみなされたが、40年が経ち、いつの建築かわからなくなったタイムレスな魅力を獲得