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BLOG校長ブログ

2024.02.26

屋根と庇(ひさし) 東野高校建築論 ④

建築の専門家、五十嵐太郎さん(東北大学教授)に本校を評していただいた話題(「東野高校建築論」①~③)を書いてきましたが、その前に法隆寺と聖徳太子のところでとりあげた隈研吾さんの著書に、本校の建築に関連して「これだ」というところがあったことを思い出したので、「東野高校建築論」の付けたしをします。

『日本の建築』(隈研吾、岩波新書、2023年)

「西欧において屋根は壁面や柱から、外側に飛び出さない。古代ギリシャ以来、ヨーロッパ建築の本流を形成してきた正統的な古典主義建築(クラシシズム)においてだけではなく、民家においても庇は壁から外に飛び出すことは少ない。飛び出すことは構造的にも経済的にも不利であり、東アジアに比べて雨が圧倒的に少ない西欧のドライな気候においては、柱や壁を雨から守る必要がなかった。西欧では結果として、壁の二次元的な構成とプロポーションの追究が進化していった。一方雨が多く、夏の日差しが強い東アジアでは、屋根も庇も飛び出して、柱、壁、開口部を守らなければならない」

本校の教室などほとんど建物には日本の家屋のような瓦屋根がのっています。それなのに、屋根は壁からほとんど飛び出しておらず、また庇もありません。正直、雨や雪の時などに不便に感じるのがしばしばでした。このくだりをよんで、なるほどと合点がいったのです。

本校を設計したクリストファー・アレグザンダーはヨーロッパやアメリカで学びカリフォルニアの大学で教えていた方です。なるほど、特にカリフォルニアは雨が少ないことがよく知られているので、アレグザンダーには屋根や庇がピントこなかったのか、などとかねてから思ってはいたのですが、隈さんが指摘するように、屋根は外に飛び出さないなどが欧米の建築の一貫した特徴ならば、斬新なデザインをしたアレグザンダーでも、そこから抜け出すことはなかった、というのは言いすぎでしょうか。

実はこの屋根や庇について隈さんが書かれているところに、思わぬ人物の名前が出てきて驚きました。フランク・ロイド・ライト(1867~1959)です。隈さんの紹介を引用します。

「二〇世紀のモダニズム建築の巨匠の一人に称せられた、超大物である。二〇世紀のアメリカを代表する建築家であり、帝国ホテルの二代目本館(一九二三)の設計者として、日本にも大きな足跡を残した」

1893年のシカゴ万博の日本館がライトの作品に大きな影響を与えたそうで

「庇が大きく飛び出し、重たい壁ではなく軽やかな木製建具によって内外をつなげたユニークな建築は、庇の出のない、内外が切断された箱のような建物しか見たことがなかった二十代後半のライトに大きなショックを与えた。その後突然、ライトの建築に深い庇がつき始め、開口部が大きくなっていった。すなわち日本風になっていったのである」

「若きライトは日本の庇に出会って、庇にめざめた。庇の下のめいっぱい大きな開口部を追究し始めたのである。(略)建築の歴史における大きな転換が、ライトから始まった」


ライトによる帝国ホテル(二代目本館)は1976年、正面ロビー部分が博物館明治村(愛知県犬山市)に移築されました(写真)。ただ隈さんは「ライトは日本から建築を学んだということを語りたがらなかった」「帝国ホテルでも、ライトは意識的にその日本性を隠蔽した。(略)日本人にとって帝国ホテルは「異国」のものとしか見えなかった」と書いています。
博物館明治村の公式ウエブサイトはこちらから

明治村はさすがにちょっと遠い、でもすぐ近くでフランク・ロイド・ライト設計の建物を見ることができます。都内・池袋にある「自由学園明日館(みょうにちかん)」です。
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