2024.03.04
青山南さんのエッセイに出てきた「犬の耳」の話から福田和也さん、梅棹忠夫さんの著作に寄り道してしまいましたが、青山さんのエッセイにはほかにも「同感、共感」がいくつかありました。「犬の耳」ができているところから引用します。
「ぼくの場合、本を読むのを途中で決意してやめるにはかなりの勇気がいる。読んでいるうちになんだかおもしろくなくなってきて、読みつづけるのが時間の無駄づかいのようにおもえてきても、決意して読むのをやめることがなかなかできない」
「もちろん、読むのを途中でやめた本なら、いくらでもある。(略)でも、それらは、読むのをやめた! と断固決意したうえで読むのをやめた本ではなくて、なんだか読む気がしなくなったなあ、と曖昧な気持ちでいるうちに、なんとなくずるずる読まなくなったという本だ」
わかります、わかります。そして
「本は最後まで読むもんだ、と決めたのはだれだ? いや、待てよ、そんな決まり、あったっけ? (略)小さい頃、本ひとつ最後まできちんと読めないようでは、おまえ、なにもできませんよ、と母親あたりから注意でもされただけの話ではないのか」
「本を最後まで読むということも、じつは、本をめぐるしつけのひとつにすぎないのかもしれない」
ここの「母親」を「教師」「先生」に代えられるかもしれません、学校での読書の勧めの中で無意識に最後まで読むことを求めているかもしれません。
私もなかなか途中で読むのをやめることができなかったのですが、ジャーナリストの立花隆さんが自分の読書歴、読書方法について語っているのを読んだとき、勇気づけられました。
少し読みだして面白くない、役に立ちそうもないと思ったらすぐに読むのをやめていい、そんな本を読むのは時間のムダ、と明快に言い切っていました。
あるテーマで取材をしようと決めた時、神田・神保町の書店でその分野に関する本をそれこそ棚ごとすべて購入してしまうという立花さんであり、資料としての本読みの側面が強いので、必ずしも私のようなただの本好きとはレベルが違うのですが。
次々と読みたい本が現れてくるのに今読んでいる本がなかなか先に進まない、たぶん、今一つその本に入りきれないからだろうと頭では理解しているのですが、時々、この立花さんの叱咤を思い出しています。何しろ、限られた人生の中で読書に費やせる時間は限られていますからね。
最後に青山さんの本から本棚の話し。本好きは本棚の話も好きです、たぶん。
「本棚の本が一望のうちにながめられるうちはいい。本棚の本は、とくに本好きの本棚の本となると、かぎりなくふえていく。本は増殖する、と本好きはみな本気で信じている。勝手にふえていく、と思っているふしもある」
もちろん生物ではないので本は増殖しません。気持ちはわかります、自己弁護として。
そして、本棚に収めきれなくなると床に本を積み始める。そうなると、どこにどんな本があるかわからなくなるので、だいたいの地図を書いておく、という翻訳家の話を紹介した後で
「ぼくの場合、地図はない。ぼんやりとした記憶と勘だけが頼りだ。本棚の奥深くから、とんでもない本が顔をだして、わお、と大喜びすることもある。じぶんの本棚は、そう、発掘の喜びをもたらしてくれる遺跡のようなものでもある」
うーん、私はここまでには至っていないはず・・・