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BLOG校長ブログ

2024.03.22

京都も占領されていた ⑥

第二次大戦・太平洋戦争後の連合国軍(米軍)の京都占領(進駐)の話から、東京・練馬にあった米軍宿舎「グラントハイツ」、代々木にあった「ワシントンハイツ」に話が飛び、そこで終わるはずだったのですが、国土地理院の空撮写真データベースを活用していて「それなら京都の写真も当然あるだろう、何か参考にならないか」と探してみました。というわけで、しつこく「京都も占領せれていた ⑥」です。


京都市中心部を1946年に米軍が撮影した写真です。上が北になっています。いわゆる碁盤目状という京都の道路、街並みはそのままです。左下の大きな四角に囲まれたところが二条城。右上の、その二条城の何倍ものスペースがあるところが京都御所、京都御苑、ちょっとわかりにくいですが、その中間部あたりに少し大きめの四角に囲まれたところが京都府庁です。

二条城は周りを道路か空地のようなもので囲われています。特に東側はやや幅広です(茶色の矢印のところ)。白い直線となっている道路幅と比べても、二条城東側はかなり幅広です。解像度をあげて(アップで)見てみると空地のように見えます。ここに飛行機が降りたか?

御所、御苑はどうでしょうか。御所の周囲を巡る道路が見えますが、御所南側にもかなり幅広の長い道が何本もあるようです(青色の矢印のあたり)。やはり飛行機が降りたという御苑ですが、御所の築地塀のすぐ脇の道より、こちらの道の方が飛行機は降りやすかったのでは。勝手な推測ですが。

まったくの私的思い出です

さて、時々京都には出かけるのですが、やはり行く先は神社仏閣、博物館・美術館などが多く「京都も占領されていた ②」でとりあげた京都府庁旧庁舎のあるあたりはいわゆる「官庁街」なので、近年は足を運ぶことはありませんでした。

ところが旧庁舎を見にいって周辺の様変わりにびっくり。府庁はもちろん、すぐ隣の京都府警察本部も新しい高層ビルになり、かつて京都府警本部の管理部門があった建物には国の役所である文化庁が入居していました。

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文化庁の庁舎。バリアフリーのスロープなどもついています。府警本部のころの面影は十分残っていました
/京都市が文化庁誘致に力をいれました

文化庁の東京から京都への移転については、京都側の熱心な働きかけがあって実現したわけですが、完全移転ではなく、京都に移ってきた職員の気持ちも複雑でしょうね。府警本部当時の建物のままだったら、その古さには辟易とするであろうから、さすがに内装などは一新されているのでしょう。IT環境なども必須ですしね。あいにく休日で中に入ることはできませんでしたが、外観はさっぱりとはしていました。

その文化庁になった府警本部の管理部門の建物(下の写真の右端に写っている建物)の南側には道路を挟んで府警本部の別庁舎がありました。そこはすっかり取り壊されて空地になっていました(下の写真、道路左側の白色のフェンスで囲まれているところ)。

この取り壊された庁舎には捜査一課などがある刑事部や防犯部(当時の名称)などの捜査部門が入っていました。この取り壊された庁舎と旧本部は写真中央の道路の下の地下道でつながっていました。

普段は記者クラブのあった右側の建物を出てから信号を渡って向かいの庁舎にせっせと足を運び、府警幹部の方々も普通に外を歩いていたような。何回かは地下道も歩いたか。すっかり忘れていたのですが、何十年ぶりかでここに立ってみて突然、思い出しました。

もちろん地下道は今はなくなっているのでしょう、保安上、書いてはいけない話だったかしら、建物そのものがもうないのだし、まさかね。
だからどうしたというごく私的な思い出話でした。