2024.03.21
戦後、東京都内にあった連合国軍・進駐軍(実質は米軍)の住宅だった「グラントハイツ」をとりあげましたが、もう一か所、ここもふれないわけにはいかないというのが「ワシントンハイツ」。現在の代々木公園一帯(渋谷区)が同じように米軍住宅でした。
グラントハイツについてまとまった本は探しきれなかったのですが、こちらはかつて読んで印象深かった一冊があります。
第二次大戦後やってきた米軍が都内の施設を次々と接収し、事務所などとして使い始め、家族住宅も造られます。この本はその経過を綴るだけでなく、そこに出入りをして商売をしていた日本人、さらには軍人・軍関係者として日本で暮らした人へのインタビューなどもまじえ、副題にあるように、戦後の東京のある側面を描き出す力作です。紹介しきれないので、グラントハイツにも関係するところなどを何か所か引用します。
「接収が始まってすぐに米軍兵士がテントを張り始めた代々木練兵場は、すでに金網のフェンスに囲まれた「東京の中のアメリカ」になっていた。昭和二十一年八月、米軍の第八軍司令部はその地を米軍家族居住地区に指定し工事を始め、翌年九月に竣工していた。敷地面積二十七万七千坪、芝生の中に同じような造りの家屋が八百二十七戸と大量に建ち並び、そこには一九四〇年代のアメリカがそのまま再現されていた。米軍はその「街」を「ワシントンハイツ」と名づけた」
練兵場という旧日本軍の施設をそのまま使うことは、成増飛行場を利用したグラントハイツと同じですね。
「このほかにも都心には、練馬区の成増飛行場跡にグラントハイツ(千二百六十七戸)、永田町の閑院宮邸跡にジェファソンハイツ(七十戸)、霞ヶ関にリンカーンセンター(五十戸)などの米軍住宅施設が建てられるが、いすれにもアメリカの大統領の名前がつけられている」
その住宅は費用も工事も日本の負担でした。占領されているのだからと言えば当然なのでしょうが、複雑な気持ちです。
「ワシントンハイツの工費は八億円、労務者は延べで二百十六万七千人を動員した。仕事を請け負ったのは鹿島建設、清水建設、戸田建設などだった」
このワシントンハイツもグラントハイツ同様、アメリカの占領政策の転換とともに軍人が減っていき、空き家が増えていきます。返還運動も盛んになります。そして、日本に返還されるきっかけとなったのが1964年(昭和39)の東京オリンピックでした。選手村になったのです。そしてオリンピックが終わって選手村は取り壊され、公園などに生まれ変わりました。その敷地内にはいまNHKの放送センターもあります。
グラントハイツからみでこんなエピソードが紹介されていました。
「昭和三十二年には成増グラントハイツの高校生ビル・マケインがラジオ局を作っている。彼は秋葉原にでかけ、スピーカーやアンプ、ワイヤー、チューブを買い込んで、「ラジオ・ティーン」を立ち上げ、自らディスクジョッキーを始めた」
「といっても、実際の電波に乗せたのではなく、電話回線を使って、ワシントンハイツや埼玉県朝霞の米軍住宅「モモテ村」、キャンプドレイク、それにグラントハイツにあるプールサイドをつないで、スピーカーで流した。アメリカのレコード会社にプロモーション用のサンプルレコードを送らせ、届いたヒットソングをかけながら、「トップシングル100」を発表、米軍家族住宅で暮らす中高生たちを興奮させた」
筆者の秋尾さんは取材をふりかえっています。
「こうした高校生たちのちょっとした冒険は、しかし日本社会に何ら影響を与えるものではなかった。およそ五十年が経ち、二十一世紀になって、リタイアした彼らが同窓会気分で全米に散らばった当時の仲間を探そうとウェブ上で情報交換していなければ、日本人の私に知られることもなかった」
秋尾さんは「あとがき」でこう書いています。『古都の占領』の筆者、西川祐子さんと問題意識は共通しています。
「占領に手を染めるなんて、無謀だ――。周囲からそんな声があがった。そんな昔の話をなぜ――。(略)日本人にとっては複雑にからみあった年月であり、アメリカ人にとっては通り過ぎた思い出の一頁にすぎなかった」
「もう少し早く始めていれば――。何度悔やんだかわからない。ようやくそこで暮らした人を探し当てその話に耳を傾ければ、記憶が定かではないこともしばしばだった」
「しかし、いま私が聞き取って次世代へ伝えなければ、永遠に占領期は封じ込められてしまう。紋切り型のGHQ批判で終わってしまう」