2024.03.26
作家の浅田次郎さんが『一刀斎夢録 上・下』(文春文庫)で独創的な見方をしめした西南戦争です。辞書的にはこんな説明になるかと。
明治10年(1877)、西郷隆盛らが鹿児島で起こした反乱。征韓論に敗れて鹿児島に帰郷した西郷が、士族組織として私学校を結成。政府との対立がしだいに高まり、ついに私学校生徒らが西郷を擁して挙兵、熊本鎮台を包囲したが政府軍に鎮圧され、西郷は郷里の鹿児島・城山に戻り自刃した。かつては「西南の役」とも呼ばれた。
もう少し詳しく。以下から引きます。
「西南戦争は、明治十(一八七七)年二月から九月にかけて戦われた近代日本最大、そして日本史上最後の内戦である。
「政府への尋問の筋これあり」
東京から鹿児島に派遣された「視察団」が、西郷隆盛の暗殺を目的としていると憤激し、こう宣言して西郷以下が挙兵したとき、従う者は約一万三〇〇〇名、その後九州各地から馳せ参じた部隊や徴募隊が加わって、総兵数は三万名余りに膨れ上がった。対する政府軍は六万名余りを動員、半年以上にわたって戦闘が行われることになる」
ここでは西郷のかつての盟友である大久保利通は出てきませんが、この時の明治維新政府の実質的なリーダーが大久保内務卿でした。徳川幕府を倒し、明治維新を推進した中心勢力の一つ、薩摩藩をひっぱった人物として西郷と大久保が双璧であることに異論はないでしょう。近年では小松帯刀も再評価されていますが、若くして亡くなったこともあって、明治に入ってからの維新政府内での影響力を考えるとやはりこの二人。
二人は鹿児島市内のごく近いところで育った幼なじみで(西郷が少し年上)、明治新政府では征韓論で真っ向から対立するなどその関係は実にドラマチックであり、いきついたところが西南戦争でした。戦場で相まみえたわけではありませんが、実質的に西郷と大久保の戦争だったわけです。
ではそんな幼なじみでお互いの考え方は十二分に知っている二人がどうして仲たがいしたのか、征韓論がそれほど深刻な対立を生んだのかという疑問が浅田さん、さらには磯田道史さんにはある。さらには、西南戦争での西郷の指揮や動きが不可解なわけです。
西郷は私学校生徒らからなる軍勢を率いて東京を目指し、中央政府に圧力をかけて自分たちの主張を通そうとしたと説明されますが、それにしては例えば熊本攻略にこだわるのがよくわからない、さらには、挙兵の直接のきっかけもはっきりしないところがある。
浅田さんの小説『一刀斎夢録』は、幕末から戊辰戦争までのいくつもの戦いを生き残った元新選組の斎藤一が明治の終わりの時期に、陸軍の剣道の名手に昔語りをするという形で書かれています。斎藤は明治になって警視庁の警察官になり、西南戦争に警察官として従軍します。その斎藤が西郷、西南戦争についてこんな言い方をするのです。
「戦いというは偶然の積み重ねで、先のことなど誰にも見当がつかぬ。(略)しかしあの戦いに限っては、どうにも台本があるとしか思えなんだ」
「わしが西郷と大久保の仕組んだ猿芝居を確信したのは、実はそのときであった」
「ならばなにゆえ、あの西郷だけが格好良く死ぬのだ。あまりに都合がよすぎるではないか。長い芝居の大団円に、花道が誂えられたのじゃな」
では西郷、大久保の狙いは何だったのか。
「徴兵令でかき集められた百姓ばかりの軍隊は、戦の何たるかを知った。指揮官たちは近代戦の貴重な体験をなした。海軍も艦隊の総力を進め、日向灘やら錦江湾から艦砲の実弾射撃をした。輸送も通信も兵站も、すべて全力を以て実験された」
「目的はそればかりではあるまい。あの戦は士族たちの不平不満を吞み込んだ。ほれ見たことか、武力に訴えるなど愚の骨頂じゃと、西郷は身を以て示した」